ここのところ、ウェブでの決済でSuicaを使えるところが出てきたので、Suicaにお金をチャージして電子マネーデバイスとして使ってみることにした。ここ数年はずっとSONYのパソコンを使っており、Felicaポートは既に持っているので、初期投資は特になし。定期券はPASMOの方でまとめてしまったので、これという使い道が無くて困って(?)いたので好都合だった。
電子マネーデバイスとして使うには、My JR-Eastにユーザ登録し、Suicaカードを登録しておかなければならないということで、早速チャレンジしてみたのだが、何度やっても登録過程の途中で失敗してしまう。おかしいなと思い「使えるカード」のページをよーく見てみたら、電子マネーに使えるカードというのが別途あるんですって。わたしが持っているのは、お買い物Suicaがリリースされて交換したものなので、それ以来。休日だったので、最寄りのJRの駅のみどりの窓口で無料で交換してもらい、早速登録させた。Suicaマークの右下に、小さく緑の丸がふたつ横に並んだものが印刷されている。これが、その証らしい。
とりあえず、{[a 'bk1'}}はこれで決済できることが分かっているので、あとで挑戦してみるつもり。日本では少額決済の手段ってまだスタンダードでは無いし、これといった決定打が無い状態だけれど、案外、これっていけるんじゃないかしらね。まあ、鉄道を利用しない人にとっては一生縁のないものだし、他地域がどうなっているかまでは分からないのだけれど、その辺は今後どうにでもやっていけるだろうしね。
大日本印刷グループ配下に入った丸善とジュンク堂書店のダブルネーム書店第一号がこのお店。場所は、東急百貨店本店7階。そう、あの「
太陽を盗んだ男 [DVD]」で沢田研二扮する教師が、屋上からお金をばらまいた、あの建物である。渋谷の高級住宅街、松濤の入り口に当たり、以前は落ち着いたエリアだったがここ数年はドン.キホーテが斜め前に来たり、ブックファースト渋谷店だったビルが建て直しされH&Mが入ったりで、段々とディープ渋谷にもギラギラ明るい照明が当たってる感じがする。
しかし、この名前そのままというのはびっくりした。もうちょっと気の利いた名前にするのかと思っていたのに。中で働く書店員さんの服装も、エプロンは明るい紺色のオリジナルだったが、ポロシャツはジュンク堂の白地に緑の縁ラインが入ったもの、と、だいぶジュンク堂色が出ていた感じだ。商品を入れる袋も、濃いベージュ地に店名が白抜き、と、あまり芸の無いものであった。
さて、店舗だが、7階にあるため、文化村通り沿いのメインエントランスそばにあるエレベーターがひどい混雑。わたしが到着したのは19時半過ぎだったが、1回では乗り切れないくらいの客がいたので、早々に気持ちを切り替えて、別のところ(ディオールの角を曲がった先にある)の方に乗り込んだ。こちらはスカスカ。百貨店の中に入った書店は、このアクセスがネックだ。折角現地までたどり着いても、そこからエレベーターやエスカレーターを使って上に行かないとならず、それに時間が掛かることも多いんだよな。
こちらのエレベータは、出てすぐに文芸書エリアだったので、ざーっと見てみる。日本の作品、海外の作品とあるが、渋谷近辺で海外文学の棚がこんなにたくさんあるのを見たのは実に久しぶりで、感じ入ってしまった。棚は、見た目も中身もいかにもジュンク堂という感じ。つまりは、「ここならあるんじゃないか」と期待させるボリュームということだ。ブックファースト渋谷店が閉店してからは、ちょっと珍しい本を手に入れようとすると新宿か池袋に行くしか無かったけれど、これからは渋谷で済ますことができる、というのは、幸福なことだと思う。新潮クレスト・ブックスなどのシリーズも、今生きているものはほぼ手に入るだろうと見られる。棚の中身の揃えはまだまだなのだろうけれど、それは追々やっていけばいいこと。
文芸書が正面から見て右中央辺り、漫画が、右の一番奥、雑誌が左手前と、移動する距離が結構ありそうなのが日常使いにはToo Mutchな感じはする。この辺は、今まで使ってきたブックファースト渋谷文化村通り店やリブロ渋谷店と使い分けていけばなんとかなるだろう。閉店も、百貨店に入ってるから仕方ないけど21時なので、平日にじっくりと見て回ることは難しいかなー。何にせよ、あのごちゃごちゃした渋谷の通りを歩いてでも来たい書店ができたことは、良かったように思う。
Twitterでは「「行ってがっかり」でも気にしないよ」なんて書いたけど、ジュンク堂の棚に対してそれは失礼だったな。ジュンク堂という看板を背負っているだけのものはあります。ちょっと見かけたことのないシリーズが揃っていたりもするし。でも、店舗が広いからあんまりもったいない感は無いけど、宮沢賢治関連でひと棚使ってしまう、というのは、なんというか、アレだよなあ(苦笑)。
大体1時間弱いたことになるけど、もう足が棒のよう。ベンチはあるけど、一旦座ったら動けなさそうだからやめにしておいたよ。
レジのカウンターは、まるっきりジュンク堂。L字型一列に並ぶと手が空いたところが呼んでくれる。でも、カウンターに棚が無いので、リーフレットのようなものを置くスペースが無かった。出版社のPR誌がどこにあるかも結構探したんだけど、これもとうとう見つからなかったな。まあ、それだけ広いってことだけれど。
丸善のエリアである文房具売り場も見たんだけど、これといって興味をそそるものは無かった。桐の箱入りとか、なんかすごい万年筆は、結構揃ってる模様。それよりも、片隅にある鳩居堂の方がわたしには使いでのある感じ。ちょっとしたお使いものなどのときには何かとお役立ちなものがありそうです。
文房具のエリアと本のエリアは、大きくはエスカレーターが分けていて、手前には検索端末、その横には特集棚が。早速ふたつの特集が催されていました。ちょっと、じっくり見る余裕が無かったのだけれど、片方は津田淳子さんのお名前などがあって、ブックデザイン関連のようだ。
あと、こちら(webDICE - TOPICS - ジュンク堂書店 東急本店渋谷最大規模で開店)では「カフェもなく」とあるけど、奥の方にちゃんとあります。ただ、結構細長い作りだし周囲の仕切りも無いので、イベント開催などには少々支障がありそう。ジュンク堂の喫茶というと書店員さんと同じ緑のエプロンで接客だが、こちらは遠目に見ただけだが黒いロングカフェエプロンの男性だったのにびっくりした。壁カウンターとテーブル席がお選びいただけます。
そういえば、3000円以上購入するとチーズケーキをもれなくプレゼントとあったけど、特に何も言われなかったなあ。レジに行ったときはもう忘れていたので、わたしもそのまま帰ってきてしまったのだけれど。
書店の棚は、書店だけで作るものでは無く、街と、訪れる客も一緒になってできあがるのだと思うので、今後ともじっくり腰を据えて渋谷に馴染んでいただければと思います。まずは、開店を心よりお祝い申し上げます。
わたしのScanSnap歴は、4年弱だったことを日記で思い出した次第。まあ、ずっと使い続けてきた訳ではなかったのだけれど、Windows7に入れ替えたら新しいのを買って利用を再開しよう、とは思っていたのですよ。で、1500が出てみたら、以前不満だった画像の処理が、だいぶ良くなっているような感じ。グレースケール時の写真の扱いがあまりにもひどく、雑誌で人の顔がスキャンされたときとか、いたたまれなかったのだ。まあ、文字が読めればいいやと納得してはいたはずなのに、やっぱりわがままになっていくんだわね。
昨日は仕事をお休みにしていて、でもあんまり睡眠時間が取れなかったので午後にお昼寝、と思ったら、起きて時計を見てびっくりするほど爆睡。さすがに日付が変わっても眠くならず、でも今日は月初でいろいろあるので1時間早く出社すると宣言していたので、寝坊だけは避けたかった。よって、そこからずっと起きていることに。
朝5時くらいになって、なんとなく眠さがやってきた気はしたので、ほんの少し仮眠しようかとも思ったのだけれど、いやいや、ここで自分を甘えさせたら大変なことになる、と、トイレに行ったついでに、納戸状態の書庫部屋に放ってあったScanSnap1500を、セッティングすることにした。以前から繋げたかったけど、WindowsVistaはあまりにも環境が悪かったので、Windows7にしたら、と思っていたのだ。OSをバージョンアップしたタイミングで外付けディスクも大きいのにしたことだし、ここらでやっておかないと、収拾が付かなくなる……とくに雑誌が。しかし、購入はてっきり新年明けてからだと思っていたのに、amazonの履歴を見たら、12/1発注だって……。S500を買ってScanSnap生活が始まったのが2006年12月半ばだから、ちょうど4年のサイクルだったのね。ホントは年末年始にWindows7にバージョンアップしようと思っていたからこのタイミングだったんだけど、結局夏になってからだったから、仕方ないとはいえ、宝の持ち腐れじゃった。
そんな訳で梱包を解いてPCの近くへ。とりあえずテンポラリで使っていたUSBポートを当て込んで、ソフトウェアのインストール。前回、マニュアルも読まずにいきなりPCと接続したら、マニュアルにはソフトウェアのインストールを先に、と書いてあったことに後から気付いて後悔したのを思い出したので(このときは大事には至らなかったけれど、順番間違えていろいろ不具合が、ってのは仕事でもプライベートでも幾度か経験してるので慌ててしまった)、まずは接続はしないままでAcrobat9までインストール。で、テストでなんか読み込んでみよう、と紙をセットしてみたけれど、Scanボタンを押しても何も動かない。あれれ、ソフトウェアの設定とかしないといけなかったっけ、とかいろいろ弄っていたら、単に、ソフトウェアのインストールの後に、USBポートに差し込むのを忘れただけだったよ。間抜けすぎる……。
まあ、こんなことを小一時間やって、最後に手持ちの名刺を読み取って名刺管理OCRに掛けてみた。うーん、精度はいまひとつだけれど、今までやってたPHSでの名刺OCRよりもいいのは、名刺自体も画像で残すので、いざというときはそちらを参照できるということかなあ。出勤の準備を始めるまでいくつか整えてみたけど、結構頑張ってる気はした。ただ、数字の読み取りはかなり弱いかな。あと、かなり特殊なフォントの名刺は、やはりというか何というか、ほとんど判読不能だったりした。
奥に引っ込めてた裁断機も引っ張り出したので、今日帰ったら早速文芸誌のスキャンを再開するつもり。どのくらい違ってくるのか、楽しみー。
あ、ScanSnapのデータ置き場を、今までとは違ってユーザのMy Documents以外に設定できるようにもなった模様。これ、意外に不便だったから(これ専用のボリュームとか、作れなかったもんね)、嬉しいかも。ていうか、もうひとつ外付けHDD欲しくなってきたよ(笑)。
暇がなくて書いてなかったんだけど、かれこれ2ヶ月近く前になるか、メインで使ってるPCをWindows7にバージョンアップしたのだった。よく見たら、パソコンを買ったタイミングの関係で、SONYのサプリメントディスクなどは付いていない状態だったが、まあ、駄目だったら戻せばいい、ということで敢行。が、もうあんまりこだわるのはよそうと思っていたはずが、WindowsVista Businessを使っていたみたいで、事前に買ってあったHomePremiumは新規インストールしかできないという。しかし、メーカー独自の環境などもあるし、この状態でクリーンインストールはしたくないなあ、と迷っていたところ、夫が「俺は別にクリーンインストールでも構わないよ」と言うので、結局ただで(泣!)譲ることになってProfessionalを買い直した。
バージョンアップ後には特に問題は起きなかったが、肝心要のテレビ周りがガタガタで、起動しようとするとアプリケーションがクラッシュする始末。途方に暮れてサポート情報を検索してみたら、アプリをメジャーバージョンアップすれば解決する、とあるので、一安心。しかも、バグフィックス版のようにオンラインでダウンロードできるし、無料だった。ありがたい!
結果。今まで録画しても、ソフトウェアかハードウェアかどこかで足を引っ張られて録画再生したときに結構頻繁に飛び飛びになっていたりしたのがきれいに消えた。これはかなりストレスだったので、とても嬉しい。OSバージョンアップ前に新しい外付けHDDに変えた後にも録画して確かめた筈なので、この件は直接は関係していないと思う。ちょっと不便になったのは、録画完了後の解析終了を待たないと、CMスキップの区切りがされなくなったこと。以前は、録画している最中から見始めても区切りがあったので、処理する順番が変わったのだと思う。1時間番組は解析にもほぼ1時間掛かるので、ここが結構ロスに思えるときはある。別に待たなくてもいいのでは、とも思うのだが、一度これに慣れてしまうと、無いのが不便なのだ。もちろん、区切りの位置が違ってることもあるけど、それはまあ、なんとなく分かるので、さほど支障はない。
何より、OS自体が軽くなって、常時青息吐息の稼働じゃなくなったのが良かった。まあ、いろいろ常駐させたりしてるのも悪いんだけど、これがないと普段不便、というものがほとんどだったりするので。
それにしても、WindowsVistaなんて、何で作っちゃったんだろうねえ。往年の、WindowsMeを思い出したですよ。
この週末に放送された「うぬぼれ刑事」を観て、本当は観終わったら削除するはずが思いの外感激してしまってそのままになってます。今朝もまた一部観てきてしまいました。
何が感激したって、長瀬智也演じるうぬぼれ刑事と、その父親役の西田敏行のふたりで口げんかし合ったシーンなのですよ。大体24分くらい経ったくらいのところで、女流ミステリ作家に惚れてしまった父親に、「あの人は犯人だから」と諦めるように諭す息子、という図だったのだけれど、身内ふたりだけのプライベートなシーンということだからか、あられもない東北弁の応酬だったのですよ。
ちょっと今見つからないのでずーっと前に読んだ記憶を辿ってみたのだけれど、川崎洋の『
方言自慢 (小学館文庫)(川崎 洋)』という本があって、ここには色んな地の方言の魅力がたくさん詰まっていた。これに続けて読んだのが確か同じ著者の『
かがやく日本語の悪態 (新潮文庫)(川崎 洋)』で、たぶんこのふたつがわたしの中で混ざってしまっているのだと思うのだけれど、たぶん後者には「罵倒語というものは、言葉の中でももっとも輝きを持つものだ」みたいな考えからタイトルが付いたわけで、おそらく、方言に関しても同じことが言えるんじゃないかしらと思ったから、わたしの中で「罵倒語は方言のなかでもっとも輝いている言葉だ」という印象が残っているのだと思います。でも、このふたりの会話を観ていて、まさにそうだよなー、と感じ入ったのですよ。
もちろん東北弁といっても地方によってまったく違っており、同じ福島でも会津地方とうちの方では全然違ってくる(他の地方の人からしたら同じかも知れないけど)。そんな中、西田敏行の出身はわたしの実家のほど近くで、その彼が「福島県警の元刑事」という肩書きで登場してるのだから、期待せずにはおれない。でも、今まではほとんど、西田敏行単独の言葉だったのですよ。一話目を見逃しているので細かい設定がどうなっているかは分からないのだけれど、少なくともうぬぼれ刑事が東北弁で喋るところは、今までにあまりなかったと思う。それはおそらく、父親と同席していても他人も一緒だったり、ある程度冷静な会話だったからではないだろうか。今回は、お互いが譲らないことで少々ヒートアップしてしまい、地方の言葉が出てきてしまったのだろう。
福島の、しかも会津以外の地区が物語の舞台になることってそうそうないので比較する例が少ないとは思うのだが、今まで観た福島の罵倒語を含んだ台詞で素晴らしいと思ったのは、映画「
フラガール [Blu-ray]」(Blu-rayが出てたんだ! ……買おうかな(笑))で支配人(確か)役だった岸辺一徳のもの。飲み屋でぶち切れた彼が誰か(松雪だったか?)に罵倒語を浴びせかけるのだが、早口かつ方言の連続で、たぶん、東京の人には、ただ怒られた、ということしか分からなかったんじゃないかと思う。わたし自身そんなに汚い言葉を駆使したことはなくそんなに知識もないのだが、馴染みのある言葉がたくさんで、その中でも「でれすけ」という言葉が出てきたことに、いたく感動したのだった。まあ、よく父に怒られたときに言われた言葉、というだけなのだが。でも、ちょっと間抜けた印象なのですよ。
そして「うぬぼれ刑事」。父親から放たれた言葉で特筆すべきものがあってこれに喜んでしまったのだ。「かすかたり」(たぶん、ろくなことを言わない半端者、みたいな意味)「おたんこかぐら」など、自分では使ったことが無いけど知っている言葉がぼろぼろと。でもってお互い言える言葉が少なくなってくると「うっつぁし(うるさい)」などと追い払おうとするような言葉が出てくるのですね。この辺も、ああ、分かるなあ、と思った。わたし自身は母親がちょっと厳しくしていたのであまり方言を使わなかったのだけれど、父親はもう少し田舎の出なので、色んな方言を日常語として使ってるのですよ。直接の罵倒語ではないけれど、この言葉はよく出てきた。妹と口げんかしているときとかね。この辺りの言葉って、どういう経緯で採用されたのか分からないけど、西田敏行の手が結構入ってるんじゃないかなあ。それくらい、茫洋とした「東北弁」じゃなく「福島弁」だったのでした。
昔聞いた中で、父親の使った言葉で印象的だったのが「雷様(らいさま)」。高校の頃、車で学校に迎えに来てもらったときに、遠くで雷があってつい父親の口を突いたのだが、それまで聞いたことがなかったし、あまりにもかわいらしい、子供が使うような言葉に思えたのでびっくりしたのを覚えている。ことあるごとに思い出すのだが、先日、絲山秋子さんのweb日記を読んでいたらこの言葉がわざわざ読み仮名付きで出てきて、「あ、長野方面でも使う人がいるんだ」と、ちょっと嬉しくなってしまった。
ふるさとは遠きにありて思うもの、というし、わたし自身、昔は汚く聞こえる方言の会話とか、本当に嫌だったことがあったけれど、今こうやって聞くと、なんだか嬉しくなるし、それがたとえ罵倒語でも懐かしく思えるものだなあ、と感じ入ったわけですよ。
たぶん、激しい言葉だったら西の方が負けてないと思うのだけれど、愛らしさで言えば(罵倒語でこの表現は変だけれど)負けてないんじゃないかなあ。
ちなみに、録画してた「うぬぼれ刑事」を観た端から削除していくのは、もちろんDVDが出たら買おうと思っているからですw。なんだかんだいってクドカンの作品は好きなのかも。今週の放送では、竹下景子が母親役として出演とのことなので、こちらも今から楽しみ。
ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF)(チャイナ ミエヴィル)』 チャイナ・ミエヴィルは、この短篇集にも掲載されている「基礎」を、「S-Fマガジン」で読んだのが最初。一年ごとに三度組まれたスプロール・フィクション特集の関連作品のひとつとして紹介されていたのだった。そのときに感じたのは「不気味な雰囲気の作品を書く人だなあ」ということ。そして、よく分からない物語の締め方をするなあ、と、そのくらいだったかな。この短篇集もだいぶ評判が高いけど、最初の数編は、「すごいなあ」とは思うものの、他の本も気になるし、この辺りで一度中断しようかなあ、と何度も考えていたのだった。
ところで、この本は「ジェイク」への献辞がある。この人物と作品に登場するジェイクは同一人物なのかどうか分からないが、そう考えると、何らかの事情で二度と会えなくなってしまったジェイクを思ってこの作品を書いたことにもなるのかも知れない。
何かがこの世界を変えつつあって、そしてこの世は終わろうとしている。そんな中で生き残っている「ぼく」は、友人ジェイクに想いを馳せる。実際に彼に会えればと、古本屋に赴く。ここではほとんどが過去形で語られ、その過去にもいくつかの時間の層が存在するようだ。そのときは、目的の場所にはいなかったものの、その近くの路上で彼と会うことができた。しかし、それもつかの間、少し目を離した隙にジェイクは何かの裂け目に吸い込まれてしまう。そうやって、少しずつロンドンの町は崩壊(ブレイクダウン)していっているらしい。
世界が壊れていくのに自分は何もできないでいる喪失感や無力感、そして、圧倒的な孤独感。なぜか分からないが、新聞や電車などのシステムは、実体が分からないながらもまだ稼働しているという中途半端な感じが、余計に「壊れていっている」感触をリアルに感じさせる。
ここで、「ぼく」の済むキルバーン(ロンドン北部の町)にあるゴーモン・ステートという建物が象徴的に扱われているが、これは実際に存在するものらしい。かつては劇場として、その後ビンゴ・ホール(パチンコホールみたいなもの?)となったそうだが、ここではかつては映画館だったとあるので、劇場のときに映画館もあったのか、それとも劇場が閉鎖された後に映画館になった時期があったのか。いずれにせよ、今はビンゴ・ホールも撤退し、件の「IN」「GO」という一部欠けたネオンも取り外されているそうだ。ちょっと検索したところ、ザ・フーのライブ盤でここを使ったものがあるらしい。少し前にキリスト教団体に買われたと書かれてたけど、教会として再開した記事が見つかった。
「S-Fマガジン」掲載時に読んだ作品で、この作品のベースとなっている出来事は実際にあったことだと当時の解説にもこの本の解説にも書かれている。実際に現地で人を埋めた男が、故国に戻ってきて時間が経った今になっても、つけを払わされている話、となるだろうか。
すべての基礎に張り巡らされた「彼ら」の声を聞くことで、建物の危険を未然に察知し、アドバイスするという生業をしている。しかし男がそれをするのは決して進んでではなく、聞こえてくるから仕方なくその声に従わざるを得ないという感じだ。そんなある日、男は「基礎」の意図を感じ取り、察したとおりにするのだが、この結末はこの著者独特のものなのだなあ、と、いくつか作品を読んでみてやっと納得がいった。そんなに簡単なことではないのだよね。彼にとっては理不尽なほど重い十字架になってしまっただろうけれど、そういう意味では彼自身が生け贄ということになるのだろうか。
踊る方じゃなくて、子供の遊び場のことらしい。たぶん、IKEAのようなところなのだろうけれど、大型インテリアショップをじっくり見て回れるように併設されている託児室。そこにある、子供に大人気のボールが敷き詰められた小部屋で起こる、奇妙な出来事。そうそう、夏になると「本当にあった怖い話」のドラマ版みたいなのが昼間に再放送されてたりするけど、何度か観て、すぐに飽きて止めてしまった。そこではパターンがあって、何か不思議な、多くは不気味な現象が続いてその原因を探ったら実は……といった、予定調和の生ぬるい話ばかりだった。あまりにも簡単に原因が分かって解決されてしまうことに納得がいかなかったのだけれど、この作品はまさにそういうわたし向けではあるのかな。ただ、肝心の部分がわたしには読み取れていないのか、有耶無耶のままになってしまっている感じがするのだが。これはわたしがその辺の事情が分かっていないからなのかな?
ちなみにこれは、他二名との共作だとのこと。どんな感じで分担されていたのか、気になるなー。
ある日宛先違いで送りつけられてきた郵便物を開けてしまった「わたし」ことチャイナ・ミエヴィル。本来の宛先に転送しようにもその住所は存在しなく、名前も当てはまる人がいない。成り行きで中に入っていたとある「報告書」を読み始めるが――。
そこに書かれていたのは、突然現れ、突然消え去る「通り」の存在。いくつもその例があるようだが、この報告書で注目されいるのは、ヴァーマン通りというものであるらしい。それらを調査した報告書なのだが、送られてきたものは情報の断片であり、しかも前提としているものがあれこれ分からないので、読み進める中で主人公と一緒に推測していくことになる。まあ、たかが知れているのだが。しかも、これらの事象を調査する団体があるらしく、その団体の話題や、送付者による押しつけがましいメモなどが、この断片だけの情報であることを余計に苛立たせることになる。このイライラ感、隔靴掻痒感がこの作品のミソだわなー。読んでいるうちに、ここで言われている「通り」は人間であり、異邦人で、突然旅行者として現れた話をしてるんじゃないかとさえ感じてしまう。
今まで読んだ中ではこれが一番好き! これでこの後も続けて読もうと思うことができた。魔法使いのところにやってきた老婆の求めに従い術を使う場面が冒頭にあるのだが、その様子にわくわくする。特に、溜まって山となった蝋の山が溶けてぐつぐつし出して、そこから無数の蛇が出てくるところ、それを最後にスパッと切ってしまうところ。なんだかわくわくした。
魔法使いには、その魔の力を増幅させる使い魔なるものがあって、客の前では鳩をそれだと説明するのだが、実は見るもおぞましいグニャグニャしたものがそれなのだそうだ。これは、色んなものをこね混ぜて作ったのだそうで、自律する。なのでケースの中にいれてあるのだが、自らの存在を顕示すべく、なのか、暴れまくるのだ。この不気味な存在を作ったのは他ならぬ魔法使い自身なのだがどうにも我慢できないらしく、とうとう車に乗せて泥だらけの運河に沈めてしまう。これでおさらば、と思いきや、この使い魔、学習するのである。しかも、泥水の中でどうにかすべく、色んなものを取り込んで自分自身をグレードアップさせて、とうとう陸地に出てきてしまうのだ!
普通、こんなことになったら、自分を捨てた魔法使いの元に向かって自分をないがしろにしたことで懲らしめると思うでしょう? が、この使い魔、もうちょっと無邪気な感じなのですよ。これだけ邪気ある存在でありながら(笑)。ただのグニャグニャしたリンゴくらいの大きさだった物体が、色んなものを取り込み動くうちに、身体自体も大きくなっていく。おまけに、魚の目を取り付けて視力を得たり、埃や直射日光を避けるのにそれにひさしをつけてみたり、手や足や色んなものを得ていくのですよ。想像すると気味は悪いけど、でもなんだか可愛い。言ってみれば、ゴミだらけの中でたったひとつの植物を見つけてそれを慈しむウォーリーのようで(笑)。が、そんな彼の目の前に立ちはだかるものが。それは、馬のような大きさの、彼と同じ使い魔だったのだ……と、今度はエイリアン同士のアクションものになる(笑)。なんかもう、荒唐無稽で楽しくて、この続きも読んでみたいなー、と思ってしまったのでした。
禍々しい存在のお話の筈なのに、なぜかかわいらしい。そんなところがツボだったのかも。
という訳で、まだまだ半分も行ってないのだけれど、この勢いで読み進められそうです。もっとお気に入りが出てくると嬉しいな。
この一週間、折角あれだけ待ち望んだ夏休みだというのに、寝惚けていて何もしてこなかった。昨日映画に行った他は特段外出もなく、超ヘヴィー級の小説を読み切ったわけでもない。「この休みをなんてことしてしまったんや……」という後悔はあるけど、まあ、身体が休められたということで、それだけでもよしとするか。特に、目の疲れがひどかったので、これもあってあまり本が読めなかった。
そんな日々だったが、今日だけは違う。以前から行きたいと思っていたかき氷を食べに行くべく、以前、今度は一緒に行こうと誓っていた(?)、おぎのさん、yucoさんに声を掛けた。おぎのさんは残念ながらお仕事が忙しそうでNGだった。当日は藤沢駅で待ち合わせてランチを食べた後に電車で鵠沼海岸へ。地図を見て、駅から近いな、と大体の見当をつけただけだったわたしだったが、yucoさんは周辺地図を印刷してきてくれた。しかも、その後どうせだから海岸に行ってみるかというときもGPS携帯で位置を確認しながら案内してくれ、その後水族館まで付き合ってもらってしまった。わたしはランチとかき氷以外はノープラン状態だったので、いろいろご負担をかけてしまって反省。でも、お陰で思いがけなく楽しい、夏にふさわしい一日が過ごせたのでした。
以前から行きたいと思っていたのだけれど、最初にこのお店の存在を知ったのが自転車で行った人の話でだったので、てっきり交通の便の良くないところにあるものだと思っていたのだった。今回いざ行くことになって調べてみたら、鵠沼海岸駅から徒歩1分。こんな近いなら、もっと早くに行っていれば良かったと大反省したが、後悔先に立たず。ここは、天然氷でのかき氷とのことで、何がどう違うのかはあまり想像できなかったが、確かめてみたいと思っていたのだ。
住宅街に入ってすぐに、小さな「氷」の旗が揺れているのが見えた。構えは普通の二階建ての一軒家。庭部分の左半分に屋根をつけてオープンカフェにし、右半分はパラソルを立てて追加のテーブル、そして塀沿いに待ち行列用の椅子が数脚。これがほぼ埋まるくらい待ち客がいたが、皆屋内でゆったりしたいと思っていたようで、屋外の席はすぐに案内して貰えた。屋外といっても屋根はあるし、この日は少々曇っており暑さもきつくは無かったので、冷たいものを食べるのだし外でもまったく問題が無かった。
敷地を囲む塀は白っぽいペンキで塗られた板でできており、ところどころに何かを食べて満足そうな丸っこい子供の顔が描かれている。待ち客ようの椅子が並んでいる背後の塀にはほしよりこの『カーサの猫村さん』の一話分が一コマ一コマラミネートされて飾られており、帰りがけに通ったときにどんな内容なのか読んでみたら(しばらくはお客さんがおり、見る状況では無かったのだ)猫村さんがクマさんのかき氷削り機を持ち出して即席でかき氷屋さんになってだんなさま一家(たぶん)に振る舞うというお話だった。かき氷つながりということのようだが、お店への描き下ろしだろうか? そう考えると、塀にあしらわれている可愛いイラストもほしよりこさんの手によるものだろうか、と気になってしまった。お店の雰囲気は、何事も過ぎず、さりげない感じが丁度良かった。お店の方たちはほとんど女性のようだが、無駄が無く丁寧な接客。お水などは特に出てこなかったが、後で片隅にお水や暖かいほうじ茶がセルフサービスで用意されているのに気付いて、冷えた口を暖かいお茶で元に戻した。
注文したのは、季節のフルーツがソースとなっている、白桃ミルク(900円)。くすんだピンク色のソースが別の器で用意されており、本体はふんわりこんもりとした巨大な、細かい氷の山だった(とても細かい氷片だと思ったが、夏場はあれでも氷が分かるように削ってるらしい)。上の方を少し食べながら崩して窪みを作り、少しずつソースを入れていくという形にした。yucoさんは同じく季節のフルーツのメロンミルク。こちらは白桃とは好対照となるような、落ち着いた緑色のソース。どちらも、素材の風味が生かされた優しい味で気に入った。9月は、梨とぶどうのソースとなるようで、これもできるようならチャレンジしたい。また、レギュラーメニューの方も見ていると気になってくる。特に抹茶ミルクは濃厚な抹茶ソースに自然と目が行ってしまい、いつかはあれを、と考えてしまう。また、少し薄めの茶色のソースのがあったけれど、あれはほうじ茶ソース? チョコレート? すごく気になった。
崩れないようにゆっくり食べたせいか下の方はすっかり液体になってしまったが、できるだけ最後までいただいた。先日、三軒茶屋のいしばし氷店でかき氷を食べたときは、最後に掬いきれなかった分を残して器をお返ししたら、お店のおばさんに「こういうのはね、最後がおいしいんだから全部飲んじゃうの!」とたしなめられたのを思い出しながら、でもここではさすがにそれはできず。氷は、たぶん肌理が違うのだと思うのだけれど、さくさくと軽く、そして柔らかい。言ってみればいつも食べているのは本州のスキー場の雪で、ここのは北海道の雪、という感じ? 北海道でスキーをしたときには、側面に積もった雪のところに板の先が突っ込んでも、さして抵抗もなくスッとまた外に出られたことに感動したものだが(普通は雪の中に入らないし、入っても雪が重くて固くてすぐに止まってしまう)、そんな感じだった。
思ったよりも混雑してはいるようだったが、夏なので屋外も拡張して使えるのが良かったのかも知れない。そうそう、書き忘れていたが、注文はまず入り口正面のカウンターでしてその場でお会計なので、帰りは気楽で割り勘も簡単である。
かき氷を食べた後には、折角海辺に来たんだから、と、住宅街をてくてく歩いてビーチへ赴いた。サンダルで来れば良かったと後悔したけど、意を決して砂浜の上を靴のまま歩いて波打ち際まで行ってみた。だって、遠いところを歩いていてもちょっと詰まらないし、海の家の裏を歩くことになるので、結構客引きがあるのだ。さすがにあんなかき氷を食べた後によそのを食べる気にはならない。足元だけ洗える共同の水道でもあれば、靴を脱いで裸足で歩きたかったなあ。そのまま江ノ島まで足を伸ばし、新江ノ島水族館に向かった。閉館時間は18時とあったので、まだ時間はある。入場チケット(2,000円)を買って中に入った。

最初は、標本だのが並んでいて、この界隈、相模湾で見られる生物が展示されていた。そこを過ぎて本館(?)に入ると、大きな水槽が目に入る。相模湾を模したものだそうで、色んな魚が思い思いの場所で泳いでいる。岩に張り付いた藻やヒトデなどもその生態系の一部だし、地面で擬態している小さなエイも見つけた。上の方は集団になってイワシが泳いでいる。後で参加したイベントでも説明されていたが、相模湾には1500種くらいの魚がいるが、これは冷たい海と暖かい海とが混ざり合う貴重な場所だからでもあるらしい。館内の展示も、海の浅さ深さに加え、温度によって生息する生物の種類の違いも見せてくれている。それにしても、魚は大抵は同じような動きをするので、その中で悠然と身体をたなびかせて泳ぐエイがいいアクセントになる。ところで、このエイの一種で、シノノメサカタザメというのがいる。ここの大型水槽でも比較的下の方を泳ぎ回っているが、濃いグレーの地に白っぽい水玉模様の斑点といい、のこぎりのような背びれといい、派手な外見で、わたしは「デコトラ」とあだ名をつけた。これがですね、ひっくり返っても怖いんですよ。普通のエイの腹の方を見ると、漫画の可愛い小動物が笑っているかのような配置で穴があるが、これがシノノメサカタザメになると、鬼みたいなのだ。ちょっとタイミングを逃してしまったので正面からは捉えられなかったが、こんな感じ
。この模様は、海の生物はどんな風に見えるのだろうか。この大水槽は色んな場所から違うところを見られるようになっていて、途中、潜水したスタッフが水中カメラで生物たちを映して説明してくれるショーもあって、結構楽しんでしまった。自分で見てたら見逃していたと思うのだけれど、片隅にまるでコントの病気のお父さん(「いつも済まないねえ……ゴホゴホ」みたいなの)のように身体を横たえているのが「状態」という魚もいて笑ってしまった。なんか、怠けてるように見えてしまうよ。別の展示ではガラスを覆っている蓋をスライドして開けるとそこにはとある生物が、みたいな展示をしていたが、イソギンチャクやヒトデ系の軟体生物は、申し訳ないけど「うわっ、気持ち悪い」と思ってしまうことが多い。ぐにょぐにょしてるのが、それに触ったときを想像するとどうにも……なのだが、丸っこいヒトデで青地に黄色がアクセントのやつの表面には細かい白い毛が生えていたのはどうにも気持ちが悪かった。……よく考えると、海の中ってこういうのが多いよね。それにしても、周囲で元気よく跳び回ってる子どもたちの記憶力の良さにはびっくりしてしまった。生き物の種類を、かなり細かく覚えてるのですよ。で、見ると分かるのですよ。すごい不思議。
途中の水槽で気になったのが、サワラ。体表がもろいので生きた状態で水揚げできることが少ないことは知っていたが、そういうことは水族館まで持ってくるのは余計に大変なんだと、説明を読んで気がついた。ところで不思議なのがこのサワラの口先。ほとんどが少々潰れたようにピンクの唇ができあがっている。これって、どこかに正面衝突した名残なのかなあ? あまりにもみんな不揃いなので、かえって気になってしまった。それと、別の水槽の片隅にいた青い小さな魚。よく見ると、下に敷かれた細かい小石の白いものをひとつずつ咥えては少し離れた場所に落としている。最初は、小山を築いて巣でも作ってるのかと思ったが、よく見ると逆で窪みを作るために左右に石を持って行ってる感じだった。果たして、この後どうなるんだろうか。そういえば、どこにいるのか分からなくて台に乗って敷かれた小石の奥の窪みを見てようやっとそこの死角になっている窪みに黄色い小魚が横たわってるのを発見したこともあったけど、まるで引きこもりの兄さんみたいだったよ……。

クラゲの展示スペースは、やっぱり気分が少し高揚した。透明でくにゃくにゃしてふわっとしてるのがゆらゆらと水中に浮いている。種類によって色形がかなり違っていて、つい『海月姫』のドレスを思い浮かべてしまったが、個体を思い思いの色に染めているタイプのものもいる(ある程度色を変えられるらしい)。一際目を惹いたのは血のように赤くて長い口腕が移動してきた方向にたなびいていて、ちょっとしたアートだ。他にも見ているだけで楽しく美しいものがいくつもあって、ここだけで長く過ごせそうな気がした。

その先には、半屋外のショースペース。バックに相模湾を従えたロケーションで、この日は17時から始まる最後のショーを途中から見たのだが、三匹のイルカが跳んだりはねたりする縁で衣装を着た女性たちが舞い踊っており、簡単なストーリー仕立てとなっていたようだ。気を抜いたところで三匹揃っての最後のジャンプがあったりして、慌ててその様子を撮ったりした。丁度、海は曇りのため淡い夕日が差しており、暑くはあるが心が穏やかになる。


ショーが終わってから最後にペンギンやアシカ、ゴマフアザラシなどを和みつつ観た。ペンギンは、特に三月に生まれたという二羽の子ペンギンが好奇心旺盛で、カメラを向けると水に入ってる方は近寄ってきたり、陸に上がってる方もカメラ目線になったりする。ああ、わたしは横顔を撮りたかったのに……。アシカたちはとても気持ちよさそうにさして広くもない水槽をかなりのスピードでスイスイと泳いでいた。
帰りに土産売り場なども冷やかして、今度は片瀬江ノ島駅へ。相変わらずこの駅は驚かせてくれる。急にこんな建物見えてきたら、ぎょっとするだろう、普通。そして、心地よい疲れとともに帰途についた。まさか、夏休み最終日にこんなに充実した楽しい一日を送ることになるとは思わなかった。yucoさんのお陰です。お付き合いいただき、どうもありがとうございました。また、遊びに行きましょう!
ここ数年、美白ブームもあってか、日焼けしてる人が目立たなくなってきている。きれいに日焼けした記憶が無いわたしにとっては幸福な時期だが、思いもしなかった代償がある。
東京は、徒歩文化ということもあってか(田舎の人はとにかく歩かない)、日傘というものが若い女性にとっても必須アイテムで、わたしも常に一本は常備している。が、この季節になると最近うんざりするのが、黒い日傘率の高さだ。
それ以前は、夏のファッションに合わせて、白っぽい色や明るい色が多かった。が、黒には紫外線の遮蔽効果があるってことでか、こぞって皆黒傘を持ち始めたのだ。自分さえよければいいのかっ。こっちは延々続く黒傘軍団を目にして、ただでさえ暑いのにぶっ倒れそうだよ。
あげくに、最近は腕を紫外線から保護するのが目的らしい腕カバーも流行ってるらしい。ノースリーブや、半袖の腕にこれまた真っ黒の腕カバー。もうですね、うんざりですよ。なんでそこまで日焼けを避けてるのかって。わたしも夏の強い日差しは苦手だし、日焼けも好きじゃない。でも、たかだか駅から数分歩く程度であれば、日焼け止めをささっと塗ればいいことなんじゃないの? わたしは、日傘も紫外線避けとは考えてなくて、単に日差し避けとして使っている。なので、日差しが弱い日や屋外を長時間歩かないときは持ち歩かない。あまり日に焼ける肌質では無いせいかも知れないけど、そこまでガチガチに太陽を避ける必要があるの?って言いたいね。
小麦色の肌を晒してる女子大生を羨ましく思ったりもしたけど、やっと色白の時代がやってきた、と思えば既に行きすぎの様相。もうちょっと、ほどほどってできないものかなあ、とここ数年、考えているのだった。
腕カバーしてるのに足は大胆に晒してる人とか、もうなんだかわかんないよ。
新潮 2010年 09月号 [雑誌]所収) 地方都市に住む作家である「おまえ」の身体に腫瘍ができ、自分に合う医者を探して店員を重ね、ようやっと見つけた先で、手術のため一週間の入院をする。東京生まれの「おまえ」がどうしてこの地に来たのか、そしてどんな暮らしをしているのか、といったことを描きながら、つかの間の何もしない休みの間に、あれこれと考える。
「妻の超然」(「
新潮 2009年 03月号 [雑誌]」所収)「下戸の超然」(「
新潮 2010年 01月号 [雑誌]」所収)と続く超然三部作。9月末辺りに三本まとめて『妻の超然』というタイトルで、単行本として出るらしい。こちらも楽しみだ。
さて、この作品の主人公とその境遇だが、かなり著者本人に近い。もちろん、作家というものは案外と自分の身辺に起こったことを(形はどのようであれ)書くということに少し前に気付いたのだが、それにしても近すぎて、どうしてもその描写を想像するときの姿は、背が高くてすっと背筋が伸びている、ショートカットの女性だ。実際、それをさほど隠そうともしていない。ご本人がblogで「この小説は特別」と書かれていたが、やはりそういうものなのだろうか。まあでも、ここでまるきり事実と見定めて本人と同定してしまうのは、小説読みとしては明らかに無粋な話だろう。起こったこと、書かれていることが似ていても、それは現実のそれとは違っているのは当たり前のことだ。
ただ、そういうことは、著者自身気になっていたのだとは思う。珍しく二人称を採用し、しかも「おまえ」という、いささか乱暴な呼び方。これは、きわめて近いところから見た他人であることを断っているものでもあろうし、しかし「おまえ」というひどく近しく親しみの感じられる呼び方は、鏡に映った自分自身にとても近い存在なのだろうとも思われる。敢えてとても近しい他人として描くことで、必要以上の感傷を寄せ付けない効果もある。特にメインとなるのが、主人公曰く「予行演習」のような病気の話(ということは、いずれは本番が来ることも覚悟してのものだろう)であるし、主人公が恬淡としていてるのに周囲があれこれ騒ぎ出すという事態を予め避けているのだろうとも考えられる。いずれにしても、こういった態度自体が、絲山秋子だと感心せずにはいられない。
その姿勢は作品全編にも及び、病気が分かってからも、それをどう克服していくか貪欲に関わり、しなければならないことは事務的に片付けていく。そこには、学生時代から「自分はひとりで生きていくんだ」というある種の覚悟をしたことや、育ってきた環境、今ひとりで暮らしていることなども関わってくる。主人公が地方都市に越したのもまたそういった人生プランのためなのだが、その選択が間違ってなかったことを、ことあるごとに噛みしめているのだ。学生時代に出会ったソール・ベロー「黄色い家」(『
モズビーの思い出 (1970年)(徳永 昭三/ソール・ベロー)』所収)の主人公ハティーを自分の未来の姿と見据え、自らに依って立つ生き方を選択している。それは、回想として語られる二番目の兄との確執とも対照的なものであるが、その過去は確実に主人公を傷つけ、未だにそれを引きずっているところはあるのだろうと思われる。それでも、そんな傷も病気も自分自身で引き受けて立っているというのが、本当に力強く、また、その姿が痛々しくて悲しくて涙が出てくるのだ。
途中、自分と他人の距離の取り方として、宮沢賢治の「雨にも負けず」が引かれる。しかし、異様なまでのフォントの大きさ。よくは分からないが、何か「やけくそ」っぽいものをここに感じた。なんというか、自分は積極的に選んだわけでもないのだが、そうせざるを得ない状態、といった。それは一種、おちゃらけのようにも見える。
入院をきっかけとして、主人公は考える。人間は、暇があると普段は考えないようなことがふと頭に浮かんできてしまうものなのだろう。生命の、一番核に近いところに触ったということも関係してくるのかも知れない。人生から、作家という存在、文学というものについてまで、それは及んでしまう。しかしそれは、心配や不安ではない。より地固めができたということにもなるだろうか。ある種の開き直りとともに、自分は移動中の身であり、流れるままになるしかない、と覚悟するのだ。たとえこの世が壊れていこうとも、自分が自分である限りは、作家として言葉を紡ぎ続ける、と。そして、流れる自分に対してそこに「ある」自然に拠り所を置く。自然の中に沈んでいく夕日が、読んでいる人間にも頼もしく思える。
作家・絲山秋子の次なるステージが始まる宣言、とも受け取っていいだろうか。
すばる 2010年 09月号 [雑誌]所収) 夫の陽一がマンションの鍵を落としてしまい、近くのスーパーまで戻って探しに行った、その間のお話。季節は夏。マンションのロビーで夫を待っている若葉は、かつて果たした「一世一代のミッション」に思いを馳せる――。
新進気鋭の小説家による短篇。今までわたしが読んできたものはどちらかといえばエッセイに近い作品が多かったけれど、これは確かに創作。最初に断っておくが、わたし自身は彼女とは多少の付き合いがある。一応、偏った目では見てはいないはずだけれど、大体が出たばかりで特に何かの賞にノミネートされたわけでもない新人作家の作品を読んでいるところを考えても、通常以上の注目はしているのだと思う。
ところで、この作品、よくある女性の内省ものかなあ、と思っていた。実際、回想が終わるくらいまではそう思っていたのだ。夫が戻るのを待っている間(二人で近所に出かけるときに、どちらか一方しか鍵を持っていない、というのは、ありがちな話だ)、一人で待っている。その間にエレベーターホールに現れる住人たち、買ったものの描写、飼わなかったものの話、そして思いのほか鍵の捜索に時間が掛かっているらしいことでもてあましてしまった時間が、過去への追想を引き起こす。そして、主人公は現在へと戻ってくるが、そのときには何かが変わっている(または変わっていない)。が、期待がいい意味で裏切られて、びっくりした。
前半の、文章がひどく危うげだ。文章から文章へと移る、そのタッチが軽やかすぎる、というか、思ってもみない力の入らなさなのだ。態度としての説明のなさ、というか。わたしの知っているそれとは違った感触。それに引きずられるように主人公の脳内に入り込んでいくことになる。かつてアルバイトしていた喫茶店での出来事。若くして親から店を任された店長の事情やお店の様子。ほのかな恋心。しかし心が通い合うことはなく、別のものに心を奪われている店長の様子に不審に思い、店の二階にある彼の住居へと独断で忍び込んで見たものは。
この描写が、ひどく面白かった。通り一遍のひとり暮らしの若くない男が変貌を来したことについて勝手に妄想し、それを確かめるべく「冒険」をするのだ。その結果、主人公は――って、あれ?
ここで強烈な違和感を覚える。タイトル、冒頭の描写、そして回想から現実に戻っての様子。その辺りが分かりやすいヒントで、それをどう解くかは読者に任された形となるのだろう。これに気付いて、なんだか苦笑いしてしまった。追想は決して現実をなぞったものではない、とも言えるだろうが、なんかもう、そういうところをも飛び越えている感じ? 最初、頭がこんがらがって、何回も読み直してしまったよ。
んー、この感触、どこかで感じたことがあるなあ。一條裕子かしら? もちろん、漫画の方がもっと分かりやすく描くのでこのような戸惑いは無いのだけれど、この「いたずら」は近いような気がする。ツッコミの存在がないから、分かりにくい、気付きにくいということかな。そう考えると、全編一條裕子の絵柄で浮かび上がってくるのが不思議。そして、楽しい。
ところで、ランドセルのくだりはちょっとわたしにはうるさかった。これは何らかの効果を及ぼしてるもので、それにわたしが単に気付いていないだけなのかも知れないのだけれど、余韻をも少し楽しませて欲しかった気がするのだよ。
しかし、あれは可愛いよな。あの夢中になる気持ち、わかるわー(笑)。
お知り合いのAさんが10日に48+2回目のお誕生日を迎えるということで、サプライズパーティに声を掛けていただき、この日の会に参加しました。ところが、到着が少し遅れてしまって、仕込みが台無しになりそうな時間にぎりぎり入店! 皆様にはご迷惑をお掛けしました……。会費は、お店の前でもうお財布から出しておけば良かったよ。
知人のIさんのライヴに行くと連れ出されたご本人は、思わぬサプライズの連続に大喜び。芸達者な皆さんによる歌や踊りが続き、我々は賑やかしとしてご相伴にあずかり、大変光栄に思っています。特に、男性陣の吹っ切れぶりは特筆に値するもので、もう一度観てみたいものだと思います。
その後、場所を移してカラオケボックスにて、食わず嫌い王のまねごとなども。しかし、対抗者が、期待していた割にはあっさり見破られて(わたしでもなんとなく分かった(笑))「短冊を6枚も用意してきたわたしの立場は!?」と悔しがっていました。
パフォーマンスが多かったから、ということもあって、なんとなくデジカメで動画を撮るようなまねを幾度かしてみました。今までは花火くらいしか録ったことが無かったのだけれど、案外いい感じに録れるものですね。音は少々しょぼいけれど、まあ、ちゃんとしたビデオカメラもあったのだし、簡易記録用にはちょうどいいと思いました。昨晩は帰ってからも映像をチェックするのに、静止画、動画とも何度か閲覧したのですが、いやあ、どれも捨てるところがないと自画自賛(笑)。
主賓も、参加者も笑顔の会で、とても楽しいひとときを過ごせました。こんな素晴らしい会になったのは、もちろん主賓のお人柄でありましょう。加えて、幹事の皆様を始め、出し物の準備に余念がなかった方々、会をスムーズに進めるため裏方で走り回っていた方々も、本当にお疲れ様でした。もう皆さん、いつでも独り立ちできそうな気がします、本題の方では無いですが(笑)。
ちなみに、わたしから見たこの日の主賓の人となりは、少女らしい無垢さとおばちゃんらしい親しみやすさと貪欲さという相反する要素を併せ持った存在で、ものすごーく観察眼の鋭い人です(まあ、一緒にいるときはなんかいろんなものが目に入って無さそうだけれど)。誰にも代え難い希有な人です。
先日、単行本になった『
七夕委員---星に願いを篇(今日 マチ子)』は、元々はウェブで連載されているコンテンツだということは知っていたが、結局サイト自体は見てなかった。本を読み終え、その日に行われた料理研究家福田里香さんと今日マチ子さんのトークイベントに参加したときにやはり元の作品を読んでみようとちびちびと読み進めていたのだが、昨日読んでいて我慢ならず、そのときにはまだ決意したとき(夜)には半分くらいしか読んでなかったのに、意地になって3時半まで掛かって、全部読み終えてしまったのだった。ちょっと、途中で止めることがどうしてもできなかった。
冒頭から「あれれ」と思った。本とは、設定が違う。いや、基本的なところは同じなのだけれど、たとえば主人公の山田のりえは帰宅部だったり、親友のハルは超が付くほどのお嬢様だったり、のりえ自身、本では学校でも人気者であるかのように見えたけれどウェブではちょっと頑固で時折他人を無視して突っ走ってしまうところがあって、七夕委員でもあまりうまくリーダーシップを取れてなかったり(ハルたちの気遣いで丸く収まるのだが)と、わたしたちが公式に用意されたプロフィール以外の、作品から読み取る部分の設定から変わってくるような場面が散見される。そういう意味では、ひとつの作品としてのまとまりを見せているのはやはり本の方で、一気に読ませる力も持っている。
ただ、偏愛してやまない作品であるのは、わたしにとってはウェブ版の方だ。
ここでののりえは、明るく優秀な女の子ではなく、かなり頑なで、独りよがりだ。七夕委員での行動もそうだし、ハルに対して見せる独占欲の強さは、特筆に値する。学校の他の友達と仲がいいのはなんでも無いようだが、ハルに一目惚れした野田(青山の友人)が猛然とアプローチしてきてハルも段々と野田の話の割合が多くなってくると、嫉妬を剥き出しにするのだ。こんな姿は単行本の方では見られない。ただし、単行本の方は中二の夏、七夕までのほんの1〜2ヶ月の話だが、ウェブでは1年以上丸々経過していることになり、この三年生になってからののりえの性格に近いかも知れない(そう、成長なのか、連載しているが故のぶれなのか、段々と登場人物の性格も変わってくるのだ)。特に、ひょんなことからスコティッシュフォールド種の猫カモツを飼うことになり、その辺りから性格が大人になってきたようにも思える。自分の感情よりも周囲のことを慮るかのような。こんなのりえにはとても好感を持つし、青山くんにちゃんと気持ちが伝わるといいねー、と思ったよ。
対する青山くんも、単行本での優等生っぽい姿よりも、その裏に隠れた独善的な部分がたくさん見られる。もちろんそれには訳があるのだろうが、単行本ではまだ核心は明かされていない(少々のほのめかしくらい)し、性格自体がもっとマイルドに変更されている。ウェブ版ではもっと先まで描かれていることもあって彼の心の内や、これまでにどんなことがあって彼にどんな影響を与えたか、が分かってくるのだけれど、これがまあ、切ないわけですよ。表向きは大人びて見えるとはいえたった14歳の男の子がこんな重たいものを抱えているだなんて、なんて酷なんだろう。彼の過去、境遇、それらから作られた現在の性格などが相まって彼は率直な態度を取ることができず、のりえのこともだいぶ傷つけてしまうのですよね。一人抱え込んでいる青山くんも可哀想だけれど、それに振り回される周りはもっと可哀想だよ。まあ、それだけに、時折彼の心が氷解して、野田たちに心を開いていくところなんて感動的な場面(漫画の上では本当にさりげない)も出てくるわけですが。
のりえと青山くんを囲む人たちも個性的で、ともすれば深刻になりがちなお話を軽くしてくれる存在でもあったりする。お調子者でチャラい野田くんや、鉄ヲタ一直線のマザコン眼鏡男子の八嶋くん、いつも周囲を気遣うおっとりしたハル、何をするか分からなくてはらはらさせるマリ(青山くんの従妹でのりえたちのクラスメイト。途中から登場するのです。単行本でもちょいちょい気配は見せてるよね)らがいないと、お話にならないね、たぶん(笑)。後半は、野田の姉貴やハルの兄貴(どちらも東大法学部在学中)が出てきたりして、思いっきり奇妙な日常が、でも以前よりも深みを増して描かれているような気がするのです。
単行本を読んで満足して「続編はまだか」なんて言ってる人がいたら、是非ウェブ版も読んでみてくださいませ。また別の感動が、あるんじゃないかなあ、と思います。しかし、このお話は未完で、先日のトークによればまだまだ続けたいけど現在これを作れる環境が手元に無い、とのことで、続きが出るにはまだまだ時間が掛かりそう。最後まで見たら、わたしのように身もだえするに違いありません。
まあでも、UIがとってもお粗末なのが難。これがなければもっとスムーズに読めたんだけどなあ。Flashアニメーションなので、ってことはiPadでは読めないってことか。
_ shino [宮沢賢治関連で一棚!!! なんという贅沢。それは行かねばw]
_ にじむ [どのくらい読みでのあるものがあるかは分かりませんが(賢治好きな人たちは語りたがりですよね)、是非一度ご覧くださいw]