スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』実は、ヴォネガットは読んでいない。いつか読もうと思っていくつか買ってはいるのだけれど、いつか、ということは翻れば「いつでもいいや」になってしまいがちで、気が付くと文庫化していたり。夫が好きで昔から読んでいるのだが(そういう意味ではディックも同じだなあ)、なんか、人がすごいすごい言ってるのを聞いているだけで満足してしまうというか。でも、自分の好みに合うだろうことは分かっているのでいつか、と思いつつ、今日まで来てしまった。そんなことしてたら、ご本人が亡くなってしまった。
ちょうど、今月の「S-Fマガジン」がヴォネガット追悼号でもあり、また、先日会ったMZTさんは「是非『スローターハウス5』を! これ一冊だけ読んでいればそれでいいかも知れない」と言ってくれており、やっぱり機会というのは生かさねばならぬと早速買ってきて読み始めた訳だ。夫に見せたら絶対「実家にあるのに」と言われそう。小説の方の翻訳は浅倉さん、と思いきや、これは伊藤典夫さん。ああ、そういえば浅倉久志インタビューのときに、「最初は伊藤典夫さんが担当だったけど、なかなか上がらないのでわたしのところにお鉢が回ってきた」って言ってたなあ。因みに、エッセイの方は飛田茂雄さんだそうだが、残念ながら亡くなられたためか、最後のエッセイ集『国のない男』は金原瑞人が訳している。
まあ、そんな訳なんで、「今更かよ!」と笑ってくださいませ。
あと、ほぼ日に「担当編集者は知っているというコーナーがあり、これの最新記事が、早川書房のヴォネガット番の上池さんが出ておられる。趣味が高じて職業になった典型の方なのですね。
江戸川で毎年この日に行われる花火大会が、いつも花火始め。人工中州から打ち上げる壮大な花火が今年も見られたことに感謝。花火も楽しいのだが、それと同じくらい面白いのが、子どもたちの定点観測。子連れの人が多いのだが、彼ら彼女らが年々成長していく様子を見るのがとても楽しい。わたしは子ども好きとはとても言えないので少し離れたところから見てるだけなのだけれど、ホント、どんどん人間になっていくんだよね。乳児、幼児から、人間へ。大森さんの息子さんのトキオくんは、今年は途中で耳を塞ぐのを止めた。今までは大きな音が怖くて自分で抑えたり大人の人にだっこして貰って耳も塞いで貰っていたのだが、後半、ふいとそれを止めた。すごい!
この後恒例の焼き肉屋さんで宴会だったのだけれど、そこでも色んな子どもたちを見ながら色んな話ができて、とても楽しかった。毎年参加できるといいな。この日は、仕事の方がもううんざりしてしまう状況で大変に忙しかったので、いい鬱憤晴らしにもなりました。皆様、お疲れさまでした。
初めてカメラをちゃんと使った。しかし、マクロスイッチがどちらにセットされているか分からず、かなり困った。暗い中ではどっちがどっちか分からないよ。あと、夜はシャッターボタンを押しても実際にシャッターが切られるまで数秒かかるので、見頃と思った花火が夜空に消え去っているところばかりを撮影してしまった。あと、子どもの早い動きにはなかなか辛いものがあるね。それと、どうしてもブレ易いので、きっちりホールドできるように頑張ろう。
ファイル名はimgxxx.jpgではなく、YYMMDD-HHMMSS.jpgになったので、分かり易くなったのが嬉しい。これで時系列に並べ直すのも楽になったなあ。あと、何も操作しなくてもファイル保存してくれるところは嬉しい。まあ、失敗作も沢山保存されてしまう訳で、後から整理するのも大変なんだけど。シーン別設定とか明るさとかも設定できるのだが、まだいろいろ試してないのでその差までは分からなかった。
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』エンジンかかってきた。冒頭の部分は、この作品を書くことになるきっかけなどを綴ったもので、フィクションの中にフィクションがある入れ子構造となっているようだ。第二次世界大戦当時に戦友だった男に当時の記憶を補強するために会いに行く。そこでの、彼の妻とのやりとり。そして、ドレスデン大空襲に関しての本を書こうという試み。このドレスデンでの出来事は主人公に多大な疵を与えたのだろうと想像できる。実際、Wikipediaで当時起きたこととその影響(wikipediaj:ドレスデン爆撃)を読むと、広島の原爆とはまた違った甚大な被害があったことが分かる。ここには主立った軍事施設もなく、多くの一般市民が犠牲になり、街は壊滅的な被害を受けたようだ。Wikipediaの、1900年当時のドレスデンの風景を見ると、これが跡形もなく壊されてしまったことに衝撃を覚える(しかし、何でカラーなんだろう? 着色? 写真じゃなくて絵?)。因みに、ドレスデン爆撃を正面から扱った映画「ドレスデン、運命の日」という映画も昨年公開されており現在日本でも順次上映しているようで、東京には9月に戻ってきて下高井戸シネマで上映されるらしい。時間を取って見に行きたいと思う(できればスクリーンで観たいので)。
ヴォネガットは、当時捕虜となりこの町に連行されていたのだそうで、実際にこの惨事を経験したようだ。その当時の経験が下地となり、この作品が生まれたということのよう。わたしが読んでいる辺りでは戦時中の回想が始まり、その中ではドイツの森の中を、数人の兵隊と一緒に逃げている。戦時中だというのに主人公ビリー・ピルグリムのかっこうと来たらとても兵士には見えず、しかも冬だというのに軽装に過ぎる。その不条理さもまたビリーの戸惑いとして読者にわかりやすさを提供しているように思える。
ビリーはその後復員し、社会人としての成功を収めるが、この上なく幸福そうには思えない。それは
スケネクタディに住む復員軍人のなかで、もっとも人間味があり、新設で、ひょうきんで、しかも戦争をもっとも憎んでいたのは、実際に戦ったものたちであったと思う。(p.20)
というところに通じるのかも知れない。
その後、事故と妻の死とその回復を経て、ビリーは宇宙人に誘拐された経験があること、そして時間を自由に行き来できることを語り始める。周囲は冗談としか思えず怒り出すものもいるが、彼はいたって真剣な様子。果たして、これからどんな風に展開するか。
全体的に独特な静けさを持つ文体であり、主人公の発する「そういうものだ」という決めぜりふとともに、どこか諦念と静かな悲しみを感じさせる空気を醸し出している。ちょっと、この雰囲気は矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱ!』を思い出すところがある。
それにしても、和田誠の表紙イラストと手描きタイトルは本当に素晴らしい。この絵がないとヴォネガットの作品ではない錯覚に襲われる読者も多いのではなかろうか。
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CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)(小寺 信良/津田 大介)』刊行記念小寺信良×津田大介トークショー@リブロ東池袋店内カフェ・リブロカフェのある書店・リブロ東池袋店併設のカフェ・リブロでトークショー。池袋にするとひどい湿気と熱気を含んだ風で、サンシャインシティへと向かう道々、行き倒れそうになった。それと、池袋にはあまり縁がなくこの道を通るのも久しぶりなのだけれど、周囲のお店がわたしが知っているのと激しく違っていて浦島太郎のような気分にもなった。到着してから若干時間があったので、汗をどうにかしたり近所のコンビニに水を買いに行ったり。少し前にはあまり予約が埋まってないようなことを聞いていたのだが、蓋を開けてみれば大入り満員。しかし、そのせいもあるのか、空調が効かず、空気も若干薄くなったようであまりよろしくない状態。おかしな眠気も襲ってきて、もう低気圧とのダブルパンチでした。
しかし、話の内容は面白かった! 進行役としてこの本の編集を担当したモーリさんが開始の挨拶。その後は実質津田さんが聞き役で小寺さんに話して貰う感じで。内容は、いい感じに無軌道で多岐に渡り、何度も原点に立ち返るのだけれどまたぎゅんと明後日の方向に行ってしまう感じ。コピーワンス問題で「上限が9回になった謎」とか、コピープロテクション不要論とか、「編集が大事」とか、ローカルルールとか80年代のコンテンツ事情とか、80年代B級ホラーブームがなかったらサム・ライミの今はなかったとか、昔よくやってたCDやレコードの貸し借りや友達へのコピー。そこから、コンテンツ立国にするためにはクリエイターを沢山育てなきゃならないはずでその素地は必要なんじゃないの、とか。お二人は、この本でもお話を伺った松岡正剛さんは「確たる自分を持ってる人だ」とおっしゃっていたけど、小寺さんの話を聞いてると、この人もぶれない人だな、と感じることが時々ある。何かの問題に対して自分がどう考えるか、振る舞うか、ということを、自分の判断でできる人なんだろうな、と感じた。話している内容も論理的で、非常に分かり易い言葉で伝えてくれる。それに対して、わたしの印象では津田さんは柔軟さが感じられ、考えを変えることを恐れない人じゃないかと思った。いや、はてブ宗旨替え話だけを根拠にしてるんじゃないよ! わたしの印象は大して当たってないだろうけど、これからこの本を読んでいく際に、その辺りも分かってくるといいなー、と思った。
取材しているときの話では、もう一度話を聞きたい人として真っ先に名前が挙がったのが松岡正剛さん。とにかく分からない単語が多く、二人とも話を聴きながらノートPCでぐぐってその意味を調べて……ということをやっていたそうだ(取材2.0だって(笑))。とにかく膨大な知識量。そして、江渡浩一郎さん。最初の30分は哲学論で面食らった話からあれやこれや。江渡さんは技術者であるのと同じくらいに芸術家でもあるので、その辺りかな。今度はポイントを整理して、もう一度話を聞いてみたいのだそうだ。
会場からは休憩時間にメモ用紙を渡し、そこに質問を書き込んで貰っていた。その後は質問に沿って話をするはずがやっぱりそこから軌道を外したりを繰り返し、そんなに消化はできなかったかな(苦笑)。このイベントの模様は編集の上公開される(Life?)予定もあるのだそうで、読み上げられなかった質問に関しても、いつかどんな形か分からないけどフィードバックしたい、という話でした。参加できなかった方は待っているといい。
GoogleやYahooといったところにお金と人が流れることについてどう思うか、といった質問があったが、それに対して「この本はGoogleのお陰でできたと言っても過言ではない。Google Calenderで進行を管理し、Google MLで打ち合わせをし、Google Notebookで原稿を書いた」と言っていたのが印象的だった。集まったお金はフリーのコンテンツやウェブサービス、Picasaのような無料ソフトウエアで一般ユーザに還元しているのだ、と。
ネットを使って存分に楽しんでいる人たちの放談を聴くのは本当に楽しく、自分の考えてることに気付いたり補強したりするいい機会になる。今回はそういう意味ではほんの一部のみだったので残念だったが、このような機会をまた持ちたいということ。既に9月の末で話が決まりつつあるので、そちらも何とか参加したいと思う。
打ち上げ参加者を募っていたが、ちょっとこの気候で疲れていたのでパスして、会場にいた塚本さんとご飯を食べて帰ってきた。面白い機会を作っていただき、ありがとうございました。
リブロ東池袋店にて。
初めて行ったこのお店は、うーん、正直言って近くに来なきゃ使わないだろうなあ、とは感じた。申し訳ない。近くにいる人がちょっと気になる本を買いにくるには十分だと思うが、わたしが欲しくなるような本はなかなか見つからなかった。
マジック・フォー・ビギナーズ (プラチナ・ファンタジイ)(ケリー・リンク/柴田 元幸)』「妖精のハンドバッグ」も「ザ・ホルトラク」も「S-Fマガジン」初出時に既に読んでいるのだが、単行本という新たな器で再読。活字がきれいで気持ちよく読めるなあ。単行本ということで、文庫ではできにくい別フォントの使用もあったりして、そういう面ではプラチナファンタジイもハードカバーになって良かったのかなあ、とは思いました。
冒頭から既に喪失の物語であることが分かる。でも、主人公はそれをさほど嘆いてはいない。しばしのお別れというか、そんな感じで静かにその日がくるのを待っている。
おばあちゃんが肌身離さず持っていた黒いハンドバッグ。実はこの中に村がまるまる一個入ってるんだよ、とか、皮を剥がれた飢えた犬が待ってるんだよ、なんて言われて果たして信じるか。
こんな話、誰も全然信じないことはわかっている。それで構わない。これを読んでいるあなたが信じると思ったら、こんな話できるわけない。約束してほしい、こんな話、一言も信じないって。(p.11)
強調部分はわたしによるものだが、この言葉は、物語の最後に繰り返し発せられている。でも、こんな言葉が本気で出ているとは考えちゃいけないなんて、少女というものを少しでも知っている人ならわかっているに違いない。
失ったものを想う寂寥感と懐かしさ、そして、人を待つという孤独さとロマンチシズム。いろいろなものがここには詰まっている。おばあちゃんがああである以上、そして次のハンドバッグの守り手が自分である以上はそうなる運命に違いないと読み終わった後にほんの少し、嫉妬する。一途な愛に。
一昨年くらいだったかに人に勧められて名刺を作った。というのも、新しい人に会うたびにわたしを簡単に紹介することが難しかったであろうからで、これは自分でも説明に困るほどだからよーくわかる。そういう訳でウェブサイトのURIを記した名刺を作ったのだが、その後マイナーチェンジでメイルアドレスをつけたりの対応をした。
今回リニューアルしたのは、ひとつには同じデザインに飽きたからという身も蓋もない理由。そしてもうひとつは、読み仮名を入れるのを忘れてたので、人に聞かれることが多かったから。これまでの反省点を考慮して作り直してこんな風になった。
今度お会いする機会がありましたら、この名刺をお渡しできるかも知れません。いつかの機会にぜひ。
マジック・フォー・ビギナーズ (プラチナ・ファンタジイ)(ケリー・リンク/柴田 元幸)』刊行記念柴田元幸トークショー@三省堂書店神保町本店8F特設コーナー冒頭、柴田さんから「近々世界SF大会でケリーが来日する予定なので、一部彼女もこの会場に来ると勘違いされた方がいたようですが、今日は来ません」と。あはは、わたしもこのイベントを知ったときには同じ勘違いしましたよ(笑)。
この日は、この会場でのイベントで、多分初めて遅刻せずに参加した。数日前には参加者がちょっと少ないといった噂を聞いていたけど杞憂だったようで、満員御礼であった。受付でケリー・リンクのプロフィールと著書、それと彼女が夫と運営しているスモール・プレス、Small Beer Pressの主要刊行書のリストもあり、そこには岸本佐知子さんがこのところ手がけているレイ・ヴクサビッチの本も出しているようだ。今回の話は主に、90年代以降に出てきた女性作家について、そして、柴田さんが数ヶ月アメリカ・ケンブリッジに滞在していた際にバリー・ユアグローとケリー・リンクとともに書店でトークショーをやったという話(バリー・ユアグローのblogに書かれている)とその前にケリーと彼女の夫に対して行ったインタビューの音声公開。ここで一旦質問をとったが、勢いよく手を挙げた男性がいた。最初誰かわからなかったが、着ているTシャツのくだりになって牧眞司さんとわかった。どうして気付かなかったのか自問自答してみたが、おそらくサスペンダーをしてなかったからかな。この日はTシャツだったからだと思われる。その後、第三短篇集の話や、Small Beer Pressをはじめとする小出版社(スモール・プレス)の意義、などなど、盛りだくさんの90分でした。ケリーの作品はストーリーで語るとすごく間抜けになり、また朗読する箇所をピックアップするのも大変だとしながら、「ザ・ホルトラク」と「専門家の帽子(既訳では「スペシャリストの帽子」)」を。「ザ・ホルトラク」はゾンビの世界を想像するところでゾンビ銀行とかゾンビが頻発するので笑ってしまった。そうだ、ここは笑うところなんだ、と納得。
詳細については書こうと思ったけどちょっと曖昧になったままのところが多いので、後日追記することにします。済みません。
トーク終了後はサイン会となり、列に並んだ牧さんに話しかけたのだが、そのときにスーツを着た男性がおそるおそる牧さんに挨拶。名刺交換を是非、ということだったのだが、名詞を差し出しながら「いや、実は御社の「S-Fマガジン」に書いてます」と牧さんが言うと、スーツの方は恐縮しきってたけど、まあ、普通はその会社の雑誌に連載持ってるライターの顔までは知らないですよね……。因みに、牧さんが着てて柴田さんに「そのTシャツ、すごいね」と言われたのは、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』のラッパ模様のもの。ここぞとばかり着てきたそうだが、思惑通り気付いてくれて良かったですね!
マジック・フォー・ビギナーズ (プラチナ・ファンタジイ)(ケリー・リンク/柴田 元幸)』週末は時間ができるとこの本を読んでいたのだけれど、結局「猫の皮」に届いたところ。ん〜、しかし、『スペシャリストの帽子』と較べても、いわゆる物語としては分かりにくい作品が増えたような印象がある。これが「ラストを考えないようになった」結果なのかな? 不気味さや死の匂いを感じさせつつ、何かの間(あわい)の中でたゆたう現実。「妖精のハンドバッグ」は多分その中でも『スペシャリストの帽子』の世界に近く、これを冒頭に置くのは正解なのかも知れない。「石の動物」も、似たような雰囲気の作品は読んだことがあるけど、その作家独特のテイストがあるのだなあ、と感じた次第。引っ越して、空気が変わったり家族の具合が悪くなって「これって家のせい?」とか「方角が悪いの?」とか考えることあるよね。あれに近くはあるのだけれど、それと「仕事先から帰れない」男の話とタッグを組んで、何とも切ない話になっている。
個々については後日まとめて。
そういえば、この週末充電するのを忘れていて、土曜の夜にはカツカツになっていた。そのまま放っておいたら放電してしまい、仕方がないのでUSBケーブル経由で充電してみたら、こ、これって少しでも電池が残っている状態じゃないとUSB充電はできないのねっ!? たまたま、ACアダプタは会社に持っていってしまっていたので手元になく、日曜迷っていた外出も取りやめてしまった次第(こういう日に限って[es]も会社に置きっぱなし)。おまけにそのままPHSを今日は忘れてしまったので、帰りにぷよぷよをやることもできませんよ。せめて[es]を充電して、メモ帳代わりにするくらいか。まあ、帰りに書店に寄って買う本のリストが無いくらいだから、別にいいんだけどね!
ブックファースト渋谷店にて。
FICTION ZERO/NARRATIVE ZERO(古川日出男/東浩紀/小島アジコ/講談社文芸X出版部)」ああー「FICTION ZERO〜」って、講談社文芸X編集部の手によるものだったのか。先月発売という話があったので、雑誌コーナーずっと漁ってましたよ。殆どソフトカバーの単行本だよね、見た目は。あと、内田百の『恋日記』かわええ! 16才から延々好きな清さんに恋うる気持ちを切々と日記に! 婚約するまで続いたんだそうです。
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』宇宙人とのファーストコンタクト直前、のところまで、とりあえず。というか、時間が行ったり来たりだから、正直よく分からないよね。戦時中のビリーは、他の3人の自国の兵隊と歩き続けてきたが、とうとうウェアリーと彼は捨て置かれてしまう。と、そこにドイツ兵がやってきて、彼らは捕虜となってしまう。そんなときにもただひたすらドイツ国内の捕虜施設まで歩かされ、貨車に乗せられる場面でも、彼はふっと時空を飛び越えてしまう。過酷な現実から飛翔し、裕福になった時代へ。しかし、そんな中でも彼はどこか孤独で寂しそうな印象を受けるのは、この文章のトーンのせいだろうか。
人間は、イノセントでいるためには、どこか足りない必要があるのかも知れない。その方が説得力があるというか。この物語の主人公ビリーは、軍隊に入ってはいるものの軍の装備もしておらず、ぺらぺらの服のままだ。それに対してウェアリーは、持っているものすべてを身につけ、顔も見えないほどだというのに。ビリーは、生きる気力を持たず、また、軍人としての気骨も身につけていない。元々が牧師の助手としての従軍だったためだろうか。ただ、その生きる気力のなさが結果的に彼を生かす運命にあるんだろうな、ということはとてもよく分かるのだが。そしてウェアリーという対照的な人物を持ってくることで、彼の無垢さ、無欲さがより強調されるのだよな。
ビリーは、自己評価が低いが、それは今までの彼の人生を考えれば仕方がないことだろう。話によれば戦後、その事情は変わってくるのだが、晩年の姿を見ると、そうは人間変われないということかも知れない。
先日、牧眞司さんと少しお話をしたときに聞いたのだが、「
S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]」の、ヴォネガット名台詞集の記事を書くときに、全作品の読み直しをしたのだそうだ。でもって、続けざまに読むのはやっぱり辛い、と。彼の作品の場合諦念が全体を彩っているわけで生きる希望とか、そっちの方面に向くものがないせいか、段々落ち込んでくるのだそうだ。えーと、わたしも集中しては読まないように気をつけます。
夜は短し歩けよ乙女(森見 登美彦)』毎週見るには見てるんだけど、この嫁姑シリーズも、姑が2世代近く離れてくると、ちょっと辛くなってくるなあ。その分今回は嫁が40才だったり娘が彼女の娘連れで出戻ってきてたりといかにも高齢家族っぽい構成になってはいるのだけれど。あ、でも、舅はまだ会社員だけど定年を迎えてないっぽいね。
でもって、「お義母様の言うことは古すぎます」「時代錯誤です」と威勢のいいバリバリのベンチャー企業社長の嫁なのだが、どうも理論武装では自分の身から出たことというよりは世間で言われていること総論をわが意見と思っている風で、そのせいか最終的には姑側に取り込まれることが多いんだよね。まあ、視聴者層*1からいけば嫁側に軍配を上げるよりは姑側に……となるのかも知れないが、嫁世代のこちらとしてはあまり面白くない。
というか、嫁が突飛すぎるし口に出しすぎるんですわな。普通は口に出さずにはいはい言って流すところをまともに口答えしちゃってる感じ? まあ、ストレス無く生活していくためには、その方がいいことは事実なんだけど。
でもって、予告編を見てたら今度は嫁がひとりバカンスとかいって、リゾート地のテラスで本を読んでいる場面が。よく見るとこれってモリミーの『夜は歩けよ〜』ではないか。あー、これだけメジャーになっているということでもあるかねえ。しかし、リゾートにはあまり向いていない選択では(笑)。予告編はTBSの公式サイトでも見ることができます。
そういえば、今月の「
ダヴィンチ 2007/09月号」の第二特集は「僕たちの森見登美彦大特集」なんだそうで。立ち読みしてきたけど、年表に未来まで入っているのが笑った。父にならって30才で第一子(男子)出産なんだそうだ。娘はその少し後(曖昧なところが……)なんだそうで(笑)。しかも、作家業長いこと離れてるし! 大学での研究は「竹」だったんだねえ。なんか、いかにもという感じがしてついつい笑ってしまった。
*1 よく分からないけど、姑的な年代の視聴者が多そうじゃない?
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』そうか、「そういうものだ」という一言は、何かの死が語られたときに出てくる言葉なんだね(今頃かよ!)。多分、そう言って自分に言い聞かせないと遣る瀬なくなってしまう、ということなのだろう。この世には、あまりにも死が多すぎる。
ところで、ビリーはのちに妻になるバレンシアのことはちっとも愛してなかったと知ってびっくりした。こういう人は何となく、愛妻家だと思っていたので。だから家族がいても孤独そうだったのかなあ。いや、それとも、愛せないもの病状のひとつ?
戦後、精神病で入院中に隣のベッドにいたというエリオット・ローズウォーターって、『
ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)(カート・ヴォネガット・ジュニア/浅倉 久志)』のローズウォーターさんだよね? 彼はSF小説を山のように持っているそうで、ビリーのいい指南役になっている。彼の好きな作家は、キルゴア・トラウトで、この後ビリーも大好きになるのだった。
二人とも人生の意味を失っており、その原因の一端はどちらも戦争にあった。たとえばローズウォーターは、ドイツ兵と見誤って十四歳の消防夫を射殺していた。そういうものだ。一方ビリーは、ヨーロッパ史上最大の虐殺、ドレスデン焼夷弾爆撃の体験者であった。そういうものだ。/そのような事情から、二人は自身とその宇宙を再発明しようと努力しているのだった。それにはSFが大いに役に立った。(p.122)
その直後に有名な「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」(p.122〜123, 強調部、本では傍点)
その、「足りない」部分をSFが担っている、ということになるだろうか。そして、足りなくなったのは、あの戦争があったから?
捕虜になって施設に送られるまでに、色んな人が亡くなっている。その中にはあの、持ち物をすべて身につけてしまっているウェアリーも入っている。彼は立派なブーツをドイツ兵に取られてしまい、代わりに木靴を与えられるのだ。しかしその木靴は彼の足を徹底的に痛めつけ、その怪我から壊疽し、死に至るのだ。しかも、彼を殺したのはビリーだと言い残して……。無力な男は、やり場のない怒りの矛先にされてしまう、というこことか。
刊行予定を見たときから何となく既視感があったんだけれど、ああ、やっぱりそうだった! 9月に河出書房新社から文庫で出るローラン・トポール『幻の下宿人』って、以前ハヤカワ・ブラックユーモア選集に入っていた一冊じゃないか! 2005年SFセミナーの「最強の文学」企画(海外編)で永田弘太郎さんが挙げていた一冊で、少しだけ読ませて貰ったけどすごくへんてこな話だった。ちゃんと読んでみたくてとても気になっていたのだった。へー、あれが復刊するんだー。
訳者は同じ榊原晃三氏なので、改訳とかは無しでそのままなのかな? いやしかし、河出文庫は本当に偉いよ。足を向けては眠れませんな! 9月を楽しみに待つことにしよう。
渋谷GAGAシネマにて。GAGAの名前が思い出せなくてPHSで「ヒューマックスシネマ」とか検索してえらい目に遭いましたよ。単に、21時からの回は予告付きかどうか確認したかったからで(よくモーニングショーやレイトショーは省略されることがあるので)、もしそうだとすれば5分ほど遅れて到着しそうなわたしは諦めた方がいいからなのだった。結果的に本編上映には間に合った。
冒頭、色とりどりの飾りが風に揺れる墓地で懸命に墓石を磨く女性立ちの姿。この3人は、姉妹とその娘。ぺネロぺ・クルス演じるライムンダが主人公。いやしかし、この辺りの関係性が最初は混乱してよく分からなかった。というのも、彼女たちがその後会いに行った伯母は惚けていて、3人のことも妙に勘違いしているのだ。話がかみ合わなくて、しかも死んだ人が死んだことになって無くて訳が分からなくなるのだが、実はこの辺りが後半のキモになったりする。
いろいろ書いているとホントに長い文章になってしまうので総論だけ言うと、「あー、男ってホントにしょーもねー奴らだなあ」ということ。いや、それだけではなくあれやこれやがあるんだけど、結局彼女らを取り巻いている現実は、そこから生まれてきたんだよね。そして、女性たちは強い。愛する(多分)夫の刺殺体を淡々と処理するライムンダを見て驚きましたよ。でもってこの場面はその直前に展開される日常の風景がそのまま反転している表現になっており(多分)、台所の流し台やゴミ箱や冷蔵庫ががらりと様相を変え非日常になっていることに、ちょっとした驚きを感じた。
小ネタ的には、ライムンダ(というかペネロペ・クルス)の乳間ネックレス!(もう、目が釘付けですよ)とか、お母さんの懐かしい匂いはおならの匂い、とか、お母さんは謎のロシア人とか、いろいろあるのです。これだけ重い話なのに見終わった後にそれほど重いという印象が残らないのは、ひとつには作品のあちらこちらに散りばめられている「笑い」のお陰だとは思います。そう言う意味でもお母さん(イレネ, カルメン・マウラ)のお茶目ぶりは最高っす。あと、ペネロペってまだまだ若い女性という印象が強かっただけにティーンエイジャーのお母さん役というのにちょっと驚いた(てっきり年の離れた姉妹かと)。そして、つけ尻とともに、ちゃんとお母さんやってるんだなあ、とびっくりした。目が印象的。鬼のようにもなり、聖母のようにもなるのです。
この作品のタイトル「ボルベール」は帰還とか帰郷とかの意味があり、作品中でもペネロペが歌っているが、そういう歌もスタンダードナンバーとして存在するのだそうだ。作中では、朗々と歌い上げるこの歌を、遠くから見つめる「帰ってきた」母が涙を流しながら聴く場面があり、普段はお茶目なお母さんだけに、この歳月で失ってきたものと彼女への愛情を感じさせるいいシーンだったと思う。ライムンダは子どもの頃プロの歌手にしようと母親にいろいろ仕込まれたようで、つまりは歌うということは母娘の絆を想起させるものでもあったのだろう。二人が再会してからの、ライムンダのちょっぴり甘えた様子もいい。だって今まで母として、ぎりぎりのところで頑張ってきたんですもの、甘えたかったんだよね、誰かに。
舞台は彼女たちの故郷ラ・マンチャと住居のあるマドリッドのふたつであり、車で何度も往復する。その際に見える風景は、乾いた土地に林立する白い風車で、これって昔ドン・キホーテが立ち向かった風車と形は違えどもこんな風に残っているのかなあ、なんて感じ入ったのだった。
冒頭はお墓のシーンから始まるが、ラストはある人の死を看取る決心をしたある人の姿で終わる。その、死というものへの向かい方と使命感をたたえた姿はとても美しく見えた。
古谷野敦のblogで谷崎潤一郎賞の歴史がざっと書かれているということをmixiで知り、早速拝読した。
谷崎賞といえばどれをとっても外れがないという印象で、芥川賞・直木賞のように時機を逸してもいないとばかり思っていたが、それは最近のことなのかも知れない。過去の受賞作を見ても、当時は良かったのかも知れないけど今は……というものだったり、候補作の中からその年の重要な文学賞を取るものが出たり、選考委員の作品を候補に挙げるか挙げないかで揉めたり、受賞させて(円地文子)また揉めたり、いやまあ、当初が谷崎と交友関係のある文学者が選考委員だったこともあって、どんだけ揉めるのかとちょっと呆れるほどではあった。いや、それより何よりこの賞と中上健次の確執(とまでは言わないんだろうけれど)は凄まじい。かれこれ10年以上に渡り何度も候補になりながらも受賞していない。今見ると「何故このタイミングで外す?」と不思議に思う箇所も見受けられるし、こりゃ選考委員の誰かが拒んでいるんじゃないかと邪推してしまいそうだ(笑)。しかし、こういうゴシップって面白いものですねえ。また、各年の受賞作や受賞しなかった作品についての小谷野氏のコメントがありがたい。受賞者、候補者の当時の年齢まで丁寧に書かれているのがこれまた彼らしい感触を覚えるが、年齢情報って重要だよね。何かあるとすぐに年齢を探してしまう(笑)。
これ、どこかの雑誌に寄稿してもおかしくない記事だと思うんだけど、そういう予定は無いのだろうか?
しかし、角川春樹が小松左京賞を設立するという話のときに、当の小松氏が「存命中にその人間の名を冠にした賞を作るとは何事だ」と言った、ように覚えているが、谷崎賞も存命中だったのだな。ただし、第1回の選考を終えぬうちに亡くなっているのだが(ということは結局ジンクス通り?)。まあでも、大江健三郎賞は第1回が終わってもまだお元気そう*1なのでそれも破れてるのかもね、今は。
*1 大江氏は「自分が死んだら賞も終わりだ」と言っているが
ミノタウロス(佐藤 亜紀)』を語る@ジュンク堂書店池袋本店喫茶室さわりしか読めない状態で臨んだので、内容に踏み込んだ話になると理解不能だろうなあ、と危ぶんでいたら、それ以上に理解不能なことが沢山で困った! 以下、とりとめもなくメモ程度に印象残った話を書いてみる。記憶違いや勘違いも多々あると思うので、そういったところはご指摘いただければ幸い。
内容は、『ミノタウロス』そのものよりも、もっと大きなくくりで佐藤亜紀作品とか、作家としての佐藤亜紀とか、そういう点での話が多かったように思う。作品も、内容についてというよりは、創作の際の裏舞台を見せて貰ったという感じ。それはそれで初めて聞くことがたくさんあって面白かった。
そもそも佐藤さんの作品に戦争を描いたものが多いのは、父親の戦史オタクが影響しているらしいことにはびっくり。中央公論社だったかから出ていた全集もあったんだそうで、それを小学生(4年生くらいまで、だとか)の頃に読みふけっていたらしい。え、えーと、戦争の本を10歳くらいにデスカ? 唖然呆然。後半語っていたことだが、軍隊を描く楽しさというのは、ひとつには大勢の人が同じ方向に動くことによって生じる衝突とか軋轢とか、そういった「容易なさ」を描くことであり、もうひとつは、端的に「ものが動く」ことの面白さだと言い切っていたのは印象的。これは、宮崎駿も同じだろう、と。
トークの中には当然のように歴史的事実やら人名やらが頻出して、世界史まるで駄目夫のわたしには、ちんぷんかんぷんのところも多々あった次第。ところで、そういった単語がばんばん出てくるのを仲俣さんは流していたような気がするんだけど、それって大半を知っていたからなんだろうか? 正直言って、ある話をもう少し突っ込んでほしいとと思っても、すいすい流して次に行ってしまうので、わたしとしては食い足りない感があった。特にキーワードとなりそうな言葉はもうちょっと立ち止まって聞き出してほしかったなあ。また、仲俣さんが何か解釈を述べるとそれに佐藤さんが疑義を立て、その話が深まることもなく「そうですか」とスルー、といったパターンも多く、その段差に何か話すべきことがあるんじゃなかろうか、とも思った次第。これはわたしが知識不足であそこにいた大半の人たちは理解していて当然のことだったのかも知れないが、それってこの世の中で大多数じゃないよねえ?
この本を作るときは、ネットで現地の写真を漁ったり、1年間ほどずっと天気予報を見て参考にしたそうだ。まあ、20世紀初めはもうちょっと気温が低かったらしいが。また、ウクライナ語については、当時のアナキストの日記を参考にしたということ。また、どうも南ウクライナではウクライナ語を話してないんじゃないか疑惑があるという。これはトロツキーの伝記で知ったそうだが、まあ、あれだけ広大な土地なら言葉もだいぶ違ってくるんだろうなあ。しかし、思ったほどウクライナの当時の文献は出て無くて苦労したらしい。なんでも、カナダには亡命ウクライナ人のコロニーがいくつかあるようだが、そこで出されているウクライナ人の手記が大変役に立ったということ。とにかく資料は重要、ということで、一時資料に当たることの喜びも大いに語っていた(つまらないのが面白いのだとか)。逆に、日本はこういった資料に当たるのが非常に難しいのが難点だとか。これが日本を舞台にした小説を書かない理由のひとつでもあるようだが、構想している作品の中には、日本を舞台にしたものがひとつだけあることも明かされている(2.26事件近辺の話らしい)。ただ、最後に「日本のことを書くと読者はサボる」とおっしゃられていたのが非常に印象的だった。確かに、自分の知っている世界だと思ってしまうと、そうなりがちではあるので反省しなきゃ。
常に構想は3つほど持っており、ひとつ書き上げるとまた次の構想が湧いてくるんだとか。最初に持っている構想は花茶のようであり、それにお湯を入れるとふわっと膨らむように物語の構想も膨らんでいくのだそうだ。あと7本書こうと考えているが、これは数年おきに発表する今のペースを考えると「最後が60歳くらいになる」からちょうどいいんじゃないの、とか(笑)。構想ができてきたときに既にその舞台とか文体などは決まってきており、それ以外考えられない、という話も何度か出ていた。
とにかく「退屈を我慢する」能力が無いといい、だから小説を書くのはとても楽しいというが、逆に夫で作家でもある佐藤哲也氏はすごく苦しんで書いていて、立ち上がったときにふらふらのこともあるんだとか。
ウェブの感想は時々読んでいるそうで、このタイトルをピカソのミノタウロスに結びつけている方の文章を読んだときは「ああ、分かる人がいたんだー、良かったー」と安堵したんだとか(多分、「Ȥ˰â˺Ͽ - إߥΥٺƣ」のことかな?)。作品の受容といえば『戦争の法』と『ミノタウロス』の違いは、という問いに「それは、55年体制が崩壊したこと」ときっぱりと答えてらした。『戦争の法』の描写に「きっとアフガン戦線もこんなんだろうな」と書かれていたのを読んで、「ああ、書いた当時ではこんな感想は出なかっただろうな」と思ったのだそうだ。
とにかく、歴史観とか小説観とか、自分の立ち位置に揺るぎない様子であるのが印象的。佐藤さんのお姿を拝見したのは、多分早川書房の創立60周年記念イベントの会場で、だったかと思うが、変わらないなー。髪の毛がさらさらで、見入ってしまった。全体的に体格はがっちりしているのだが、指がきれいでこれまた見とれたり。済みません、ミーハーで。背筋がピッとしているので、凛々しい印象。
そのほか、作品を離れた話になる。先頃出た、佐藤さんともうお一方の翻訳になる『バーチウッド』の話。これは、デビューしてすぐ頃に早川の編集者から「翻訳してみませんか?」という話があり、快諾したらそれから間もなく「版権をとりました」という話。しかし、その編集者が辞めてしまい話も立ち消えの状態だったが、バンヴィルが"The Sea"(今月末に新潮クレスト・ブックスから『海に帰る日』で刊行予定)でブッカー賞を取ったときに「あれ、そういえばうちでバンヴィルの版権無かったっけ?」と再浮上した話だったのだそうだ。随分長い旅路だったのですねえ(笑)。でも、今になったお陰でハヤカワepiブック・プラネットといういいレーベルから出すことができたのは良かったかも。このレーベル、ソフトカバーで軽みがあり、つや消しのカバーが落ち着いていい感じだし、判型も手に取りやすくコンパクトだからとてもいいんだよな。
日本の作品を書く、書かないの話になったときに古典の話になったのだが、『源氏物語』はとても嫌いなのだそうだ。これは何となく想像が付くなあ。特に、葵祭の際に源氏の行列を見るのにいい場所を取ろうと葵上と六条御息所の牛車が激しく場所争いをしている場面があったが、こういった「凄まじく狭苦しい世界」でぎゃーぎゃーやっているのがホントにむかつくのだとか。因みに、『平家物語』は少しはよろしいのだそうだ(笑)。
因みに同時代の日本の作家では、村上春樹はとにかく日本語を変えた人、ということだけでも文学史に記される価値があるだろうということ。好きか嫌いかはともかくとして。それとやはり笙野頼子。もしかしたら彼女の作品は、明治以来の最高峰ではないか、特に『水晶内制度』以降。他と較べるべくもなく、全然別格。海外ではゼイディー・スミス。だが、今まで出していた出版社では「次は出さない」と言っているらしい(って、『[[ホワイト・ティース』を出した新潮社?)。
このほかにも沢山おっしゃってることはあったのだが、いかんせんこちらの知識が追いつかず、聞き取った単語もホントにそれで合っているのかどうか分からないほど。これからちびちびとググってみたりして深めていきたいところですが、はてさてどうなることやら。
最後にサイン会も行われたが、結構長い列になっていた。この日は会場もとにかく満員。久しぶりに作品を語る生の声を聴けるということで、ファンが集まったということだろうか。そういえば、会場には伊藤計劃さんの姿もあった。
来年中に、これまで書きためた短篇を纏めて出版するということなので楽しみ(文藝春秋?)。発表した時期がばらばらなので、纏めるのが結構たいへんなのだそうだ(書き直しとかも一部あったりするんだろうしね)。
ジュンク堂書店池袋本店にて。
本の雑誌 291号 ほおずき夜なべ号」
群像 2007年 09月号 [雑誌]」
文学界 2007年 09月号 [雑誌]」「本の雑誌」はジュンク堂ではまだ出てなかったので、リブロ池袋店にて。この中の、青山南コラムが今号面白い、という話を聞いて気になっていたのだが、そうか、そういうことか! ケルアックの『路上』(例の、池澤夏樹編纂の世界文学全集第一弾です)を訳すことについてこのところ書いているのだが、登場人物が何度も発するある台詞をどう日本語に訳すか、の苦労があれこれと。そして担当の編集者が言った言葉がきっかけとなり、無事解決したという顛末を軽妙な調子で語っている。もう、頭の中でヘヴィ・ローテーションになってしまったよー。
そのほか、出版社を変えて出された増補版『戦後翻訳風雲録』だが、これは前の版を結局買ってない罪滅ぼしもあって大枚(2,600円)はたいて買ったのだが、家に帰っていざチェックしてみたら、既に前世紀に買っていたことが発覚。「翻訳」にカギ括弧が付いてたから検索でヒットしなかったのか……orz。少し前に池袋の古書市でも手に入れたものがあるから、内容に多少の差はあれど3冊も同じ本を持ってることになるのだった。間抜けすぎる。
ローリー・ムーアは自由価格本のコーナーから救出してきた。白水社の分はかなり少なくなってきているが、「新しいフランスの文学」シリーズがいくつか。わたしはuブックスで持ってるからいいかなー、と見切りをつけた『人喰い鬼のお愉しみ』もあるよ。
ミノタウロス(佐藤 亜紀)』実は昨日のトークショーのために読み始めたのだが、勿論当日では付け焼き刃で、さわりを読むだけで終わってしまった。いやしかし、面白いわ、これ。びっくりするくらいすいすい読めちゃうし、どうしても佐藤亜紀は構えて読んでしまうのだけれど、そういうのは杞憂だったみたい。昨日、仲俣さんは「佐藤さんの作品は気構えが要るし、時間をかけてゆっくり読まないと読み切れない」といったことを言っていたけど、そうかなー、と首をかしげてしまったのだった。もちろん技術と工夫があっての上のことだろうけれど、文章がとても平易で読みやすい。その分、ストーリーに専念できる、という訳だ。
20世紀の初め頃の南ウクライナが舞台。人から譲り受けた広大な農地を経営する父親の次男として生まれた男が主人公だ。母親は田舎が嫌いでキエフに帰ってしまい、その際には丹誠込めて育てた長男まで連れて行った。父親とともに置いて行かれたかっこうだが、二人はこのミハイロフカの地で十分満足していた。一年を通じての農業の描写で季節を知る贅沢を読者までもが感じる。
面白かったのは、彼を学校にやるためにキエフへ預けられたときの話。彼は広大な農地で育ち外には出ていないので、あれほど母親が恋しがっていたキエフの地に降り立ったのもこれが初めて。そこで彼は感嘆する。
ミハイロフカが恋しかったとは言わないが、兄のお下がりの、分厚くて重くて湿っぽい外套が体に合わないように、キエフはぼくには合わなかった。市電を降り、街路を歩き、叔父が家だと言った小屋の前に来たときには心底気が滅入った。/素町人(すちょうにん)の小屋だ、とぼくは考えた。申し訳程度の庭を具えた、日当たりの悪い、貧乏くさい素町人の小屋だ。狭苦しいぎしぎし言う階段を上がった部屋を宛われ、(以下略)(p.21〜22)
この後夕飯に「萎びた野菜と妙な味のする肉を煮込んだスープ」をとるわけだけれど、いやもうこのがっくり度合いって(笑)。水が合わなかったということだろうが、こんなところを母親は恋しがっていたのかという呆れもあったのだろう。それは、母親そのものへの失望(まあ、それ以前に「望」があったかどうか疑問だが)でもあったのではないか。
その後、家庭教師を付けて貰い実科学校へ入学するのだが、その学校というものを知った途端にこれまた失望する(何度も言うようだが「望」があったかどうかは甚だ疑問)。
もちろん、ぼくが本当に一文無しのどん百姓やユダヤ人の行商人の小倅だったら、一も二もなく有り難い機会に飛び付いただろう。素町人の生活と体面を維持するのに汲々とする医者だの弁護士だのの家に生まれついても、素町人らしく糞真面目に自分の未来を救おうとしただろう。叔父の大好きな国民とやらにだって喜んでなろうとしただろう。だが、幸いなことに――学校に入って心底思ったが、本当に、全く、幸いなことに、ぼくは無一文でもなければ、法に阻まれて地面を買えないユダヤ人でも、医者か弁護士か教授にでもならなければ人間ではなくなってしまうと思いこんだ素町人でもなかった。となれば、教育なぞ時間の無駄でしかない。ミハイロフカの若旦那には、物理も哲学も霊妙なるスラヴの大義も、まるでお呼びではないのだ。(p.32〜33)
つまりは彼は実際家なのだ。おまけに家業を肯定的に捉え早くから父親について仕事を見てきたから、世の中どうやってお金が入ってくるかの仕組みも知っている。キエフでこんな煮ても焼いても食えない勉強をするよりは、もっと農地経営について実地で学んだ方が身になる、ということなのだろう。いやしかしこの姿って、翻って考えれば我々のような人間(多分、この作品を読むような人たちは殆どがそうなのだろうが)のことなんだと思い当たる。それを読んで笑っている自分も何だかな、とは思いますよ、ええ。
同級生をぶちのめして一年間の休学となるところのくだりなんかは、まるで夏目漱石の『坊っちゃん』のような具合だが、相手が友達だっただけにちょっぴり寂しいよなあ。
結局そのままキエフには戻らないのだが、ミハイロフカはミハイロフカで、少々厄介な状況になったりならなかったり。革命の思想とか農地改革の波は、確実にここまで押し寄せているんですよね。しかし、この主人公の動じなさといったら。飄々としていてみみっちくないところなんぞかっこいいのだが、農地解放を唱える友達に「おお、やれやれ」だなんて、ちょっとそれ言っていいの? でも、こういう性格だから革命に参加しろと言われてもあっさり断るのだった。
ミノタウロス(佐藤 亜紀)』夢中で読了。いや、もう、手に持ってると重くて手首が痛くなるような本を読んだような感触でした。これで260ページほどの作品なんですよ? すごく濃密な読書時間を体験できたような気がしました。
20世紀初頭の南ウクライナ。運よく授かった農園を経営する男の次男坊として生まれた男が主人公。長男は母の期待を一身に背負い一挙集一等速が見守られてきたが、その分次男は放任されてきた。期待されなくて寂しいというわけではなく、むしろ自由でいられるのが嬉しい。お上品な母に囲われている兄を尻目に、父について農業経営の一端を学びつつ遊び呆ける日々。そんなのどかな田園風景の中にも、革命の空気は少しずつ流れ込んできていたのだった。
ロシアの、これまた隅っこのウクライナ。レムが生まれたところとしか知らないけど、なんとなく寒そうで、しかし広大な土地が広がっているんだろうなあ、という想像だけはする。そんな中で、結果的に屋敷と農園を追われ、その上血縁者も庇護者もなくしてしまった彼は、自らを守るために戦う羽目になるのだけれど、その間にどんどん「人間」としての何かをそぎ落としていくことになります。それでも持って生まれた才覚で危機をすり抜け仲間も得て生き延びていく様は爽快。たまたま出会ったドイツ兵が飛行機の知識のあったことも手伝い、傭兵としても華々しく活躍します。縄張り争いで1日経つと親方が一変している街、かつての村のごろつきが統率する私兵軍。善悪の判断などはそこにはなく、ただどうやって生き延びるか、どうやって有利な側につくかといった地を這い、一歩先しか見えない中で道を探そうとする様が描かれます。
佐藤亜紀といえば作品は素晴らしいけど難解でとっつきにくい印象があり、わたしもまさにその罠にはまっていたのだけれど、読み始めてびっくり。とても平易な文章(正確には一見そう見える巧みな文章なんだけど)でこんなに壮大で濃密な物語を描き切ってしまうことに舌を巻きました。部隊が海外だからというわけではないのだけれど、海外文学を読んでいるような錯覚も覚え、これって日本だけに留めておくのってすごくもったいないことだよなあ、と感じた次第。こんなにすごい作品が、無冠のまま翌年を迎えてしまうの!? 日本文学業界(なんてものがあれば、だが)、見る目がなさすぎるよ!
特に感心したのが、この物語の愁嘆場。いくらでも感傷に任せて同情させ、物語を大いに盛り上げることができるはずなのに。感動を引き寄せないと読者の共感が得にくいなんてのは、そういう力量の人にある言葉ですわね。ちゃんと書ける人ならば、そんなことに頼らなくても読者は虜にできるんです。
1ページ試しに読んだらあとは止まらないこと請け合い。ぜひ、1日何も予定がない日に読んで欲しいです。これをオリジナルの言語で読める幸運に酔いしれちゃいますよ。
ミスフォーチュン(ウェズリー ステイス/Wesley Stace/立石 光子)』町はずれのゴミの山に捨てられていた赤ん坊が犬の餌となる寸前に拾われ、貴族の令嬢として両親の愛情を一身に受け何不自由ない日々を過ごす幸運に恵まれたのでした。人は彼女を幸運の娘(ミス・フォーチュン)と呼びます。ただひとつの懸念を残したまま――彼女は、実は男の子だったのです!
タイトルの「ミスフォーチュン」に何で中黒がないのか不思議に思っていたのだけれど、これはmisfotune(不運)と掛けていたのね。元々は同名の歌を歌っていて(著者のサイトで聴けます)、その背景の物語を書きはじめたら止まらなくなってしまった、ということのようですね。女の子として育てられたローズは、父の死をきっかけに本来の性に戻ろうと試みますが失敗し、その上屋敷を追われてしまう羽目に陥ります。あれだけ有能だった側近が急に頼りなくなるこのあたりがちょっと疑問ではあったのだけれど、それを抜きにすれば物語の楽しさを十分に感じられるいい物語でした。父の、亡き妹の身代わりにと引き取られたローズでしたが、本来ならば冷静にその方向を修正すべきだった母までもが自らの信奉する詩人メアリー・デイの思想実験のためにその状況を許してしまうことになります。そのため、長じてから同性である女の子と段々とかけ離れてくる体つきや生えてきたひげに戸惑い、とうとうある日、自分が「女の子じゃない」ことを知ってしまったときの驚愕と悲嘆といったら。ここが物語のひとつのクライマックスであり、誰にも相談できず悩みと不安を抑え込むローズが哀れでなりません。
後半は、ローズの放浪から始まるのだけれど、ここはごく簡単に。それはローズを話し手とするからには辛くて思い出したくない期間だからなのだけれど、最初は意味不明な事柄かと思われた途切れ途切れのうわごとから辛い旅の一端を知るのみ。その後、死ぬつもりで行った神話の世界の泉で再生を果たしたローズは、初めて自分と自分の人生を取り戻すことができたと言えるでしょう。この旅が無かったら、彼は生きてはいけなかったかも知れません。
自らの性の不一致に悩み、その後はアイデンティティの崩壊に苦しみ、生きる気力を無くしてしまう様子は経験したことは無いものの、もしそうであったらこうなっていたかも、思えるような真摯さがあって、それだからこそこの物語にすんなり入れたのではないかと思います。自分の局部とおじさんのそこが同じであったことに何の不思議も感じなかったエピソード、しかし彼(彼女)の局部に驚きおじさんが死んでしまったトラウマ、自分の局部と同性のはずのそこが違っていたことの衝撃(萎びて取れちゃうのかとか、いつか切らなきゃいけないのか、とか、それに対する恐怖心が手に取るように分かる)、よくもまあこれだけ想像できたものだと感心いたしました。
彼がアイデンティティを取り戻した後は彼(彼女)が家督を継ぐただひとりの人間だという結果を得るための謎解きになるのは小説の冒頭部分から察せられることではあるのだけれど、この部分はゴールを決めればその間どんな数奇な運命が待ち構えていようともそこにたどり着くわけで、そのつじつま合わせを確認する場でしかないのだけれど、よくもまあ、これだけ考えたものだなあ、と感心しましたよ。そこに謎の詩人メアリー・デイのエピソードが合流してきた日ときたら!
とはいってもお屋敷でみんなで仲良く暮らしました、とはいかないのは21世紀の文学ということだろうか。外の世界も見知ってしまったローズにはそんなことをできるはずもなく、それなりの落とし前をつけているのもなかなかの締めくくり。導入部とクライマックスに使われる天才詩人ファラオのバラッドが独特のトーンをこの物語に与えており、物語性を増しているひとつの大きな要素のように思われました。
一気読みにはちょっと分厚いかと心配になるけれど、次のページを繰るのを止められなくなることは保証します。寝不足にならないよう、気をつけて!

今年も川崎側から世田谷側の花火を見る。といってもこれも2年ぶりくらい。去年までは護岸工事だとかで世田谷の花火は中止されていたのだ。だからそれまでは世田谷側から川崎の花火を見ていた。公式ウェブサイトを見ると「今年はやるよ」とあったのでホッとしたー。
最初は誰も呼ばない予定だったのにお昼くらいから数人電話がかかってくる。前日に話をしておいたらしい。そんな訳でホントは昼間は夫に場所取りを任せて別のところにいる予定だったのに、2時くらいから川原にいる羽目になってしまった。まあでも、この日はとても涼しくて時折風も吹くし、なかなかいい日和でしたよ。
なんか色んなものを忘れていったので、夫の携帯で撮影。何で縦に撮ったはずなのに横向きになってるんだろ? 大きすぎて花火が全部入らなかったのが沢山、ということで、こんなアングルで失礼いたします。
青山ブックセンターHMV渋谷店にて。
本の雑誌 291号 ほおずき夜なべ号」がーん、この店舗、先日から21時までの営業になったようだ。今日は何とか間に合ったけど、10分前からずーっと蛍の光が鳴ってて落ち着かなかったよー。それにしても……今度移転(つっても店舗名違うけど)ブックファーストは何時まで営業するのかなあ。正直言って文教堂では全然物足りないんですよ。
今季も漫画や小説の原作つきの連ドラが幅を利かせてる中、なかなかがんばってるのがこれ。いや、キャスティングや内容を見て「ぬるい内容になりそうだなー」と録画はしてたけど全然見てない、いざとなったら削除しちゃってもいいや的な存在ではあったんだけど、まあ、とりあえず玉山鉄二だけは見ておこうと(ちょっと前に再放送で放映していたドラマのサラリーマン姿にちょっと萌えますた。普段着姿は微妙なのに)とっておいたんだけど、この夏休みに纏めて見たら、意外にいいでやんの。
なんとなく「あいのり」的な乗りを想像していて、ある意味それは合ってるんだけど、今の酪農家の厳しい状況や市町村合併の実情をきちんと描いている。ここで普通だったらハッピーエンドで済ませたいよね、というところで容赦しない。地域の医療の手薄さや酪農家の経営の厳しさ、使えない家畜の行方などなど、都会からやってきた実習生たちはいきなり現実を突き付けられて悩みつつも頑張るんだけど、避けられない現実がある、といった風な。牛を売った後にステーキの夕飯が出て、「食欲ない」と席を立った人続出のところで「いやでも食え!」と泣きながら食わせるあたりもなかなかぐっときましたよ。
今時の農大なんか、ホントに農業やりたいなんて意気込み持ってる人はおそらく少数で、大多数は「とりあえず大卒の資格を取ろう」みたいな調子でいるんだろうけど、そういう生ぬるい学生たちを北海道の僻地に3ヶ月間限定で送り込むという狙いはなかなか素敵なんじゃないかね。
正直言って、酪農はまだ見た目(牧草とか)かっこいい部分があるだけましなんじゃないかと思ってたけど、それって幻想かも。父の実家は農村地帯なんだけど、ここはもっと厳しそうだしなあ。ただ、酪農だとなかなか兼業農家とかできないのが難しいかも。
都市でエアコンきかせた室内で言うのもなんだけど、今後の展開が気になるドラマでした。
まあ、突っ込みどころは色々あるんだけどね。それはそれで置いておいて。
かっちゃん役の田中圭が結構よかった。実習生たちと同世代で、実習生としてやってきたかつての兄貴分高清水(玉鉄)にいろいろ期待していたという役柄で、実習生の身近な、よき相談相手だったのですよ。今回、もろもろの厳しい現実を前に舞台から去ってしまうのだけれど(この一家がかなり過酷な運命を背負わされてる気がする)、最後にはまた元気な姿を見せてほしいな。
21日の朝日新聞夕刊に掲載されている、北村薫と天野慶との往復書簡のタイトルが「岸本佐知子さんの文章に出会えた運命」だという話を聞いて、早速取り寄せて読んでみた(もちろんコピーも取った)。
北村さんが岸本さんの大ファンだという話は聞いていたし、実際、ジュンク堂のトークイベントの時にも北村さんご自身がいらしていたのも見ていたので「ああ、かなりお好きなんだろうなあ」とは思っていたが、まさかこれほどとは(笑)。
一時期、わたしは、砂漠で《水、水》というように《岸本さんの文章が読みたい》と騒いでいました。『ねにもつタイプ』(筑摩書房)が出る前のことです。見かねたある人が、《白水社のホームページにネット日記が、ちょっとだけ出てるよ》と教えてくれました。読んでみました。そこで、妙な気持ちになりました。紛れもなく岸本佐知子です。しかし、紙の上の文章とは、微妙に違う。部分的に見つめていると、今度は短歌のように思えて来たのです。
どんだけ好きなんだ(笑)。なんと北村さんはその「短歌らしい」ところを抜き出し、私家版『ドナドナ 岸本佐知子自由律短歌集』を編んでしまったというのだから、素晴らしい。この記事の中では実際にその中からいくつか紹介しているのだけれど、どんな感じかは、紙面で是非どうぞ。岸本さんは普段思いついたことを小さなメモ帳に記しているそうで、その一部をトークイベントで読んでくれたときがあった。北村さんのおっしゃっている短歌のようなもの、とはおそらくそんな感じなんだろうな。
これに対する天野さんの返信もまた楽しみでございます。チェックしておこう。
いやでもホントに、岸本さんの文章は魅力的なのです。もったいなくてまだ『ねにもつタイプ』が読めていないくらいに(笑)。
因みに、白水社のウェブサイトで読める岸本佐知子日記というのはこちらの「実録・気になる部分」のことでしょう。2004年のものが最新なんですが、確かこれが公開されたのが去年のことでした。恐ろしいタイムラグが発生していますが、これは岸本佐知子時空間にあるからなんでしょうか。
「YAMDAS - WIRED VISION ǥ֥ϡ¤Ӥ˺ȤιˤĤ」…ということで、早速読みに行きましたよ。なるほど、これでペンネームをひねり出さなきゃと悩んでいたのかな。第1回が『CONTENT'S FUTURE』をネタにしてのCC話なのでなるほど取っつき易くなっています。そういえばこの本をドキュメントスキャナに掛けて公開するよ、と言ってた人がいたような気がするけど、あれってどうなったんだろう? わたしは文庫や新書は比較的バラしても抵抗がない方なのだけれど、さすがに単行本は躊躇するなあ。因みに、出版社は早く書籍にはその文字データ(PDFでも可)を付けて検索性を上げる方向に行って貰いたいもんだけど、そういうのって全然検討されないもんですかね? それもあってドキュメントスキャナで文庫をPDF化してるんだけど、やっぱりOCRなので変な読みとりとかが結構あって(それはそれで笑えるけど)、精度を上げるのがなかなかに難しい。最初からオフィシャルなものがあればいいのになあ、と思うわけですよ。
と話がそれたけど、連載の方は2回目がどんなネタで行くのか楽しみです。期待しておりますよ。ところでタイトルに「畏友」と書いたけど、だいぶ水増しされているのは言うまでもない。
因みに、米Appleに行った増井俊之さんもここで連載持ってますね。
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』おお! 書影が出るようになった。嬉しい。
夫には「今頃読んでんの?」とか言われたけど、いいんだよ、別にいつ読んだって。因みにリブロ渋谷店の「ウラナツ。」にも入ってましたね。8月頭から読んだのに今頃読了と、随分時間がかかってしまいました。手頃な分量なのでサラッと読めるかと思いきや、この人の文章は、「流す」読み方を拒絶するのか(いや、文章って、翻訳は伊藤典夫氏であってどこまで原文の特徴を再現したかまでは知らないんだけど)、一語一語噛みしめるように読んでいったのでここまで来てしまった。
ここで書きたかったことは主人公ビリー・ピルグリムおよびヴォネガット自身が体験したドレスデン空爆なのだろう。それを書くのに、こんな風な形を必要とした、と。ビリーは過去と現在を行き来する能力を持ち(自在に、とは言えないのかも知れない)、この小説も時間を頻繁に移動している。ある時は経済的に成功した晩年だったり、ある時はトラルファマドール星の動物園の檻の中だったり、飛行機事故の現場だったり、そして、第二次世界大戦中ドイツで捕虜になった頃だったり。どちらかといえばビリーは何かの波に押し流されるように時間を往来している。
全体に漂うのは、諦念。それは繰り返し発せられる「そういうものだ(So it goes.)」というフレーズに象徴されるが、文体がすべて過去形であることも関係していると思う。これもまた、原文がおそらくそういう雰囲気だったんだろうとしか言えないのだが……。因みに「そういうものだ」という言葉が出てくるのは、決まって死について語られるとき。そのため、頻繁に飛び出すこともある。それは律儀と思えるほどで、その言葉自体が、すべての死に対する、哀悼の意であることが察せられる。死とはいずれ訪れるものであり、避けようがない。トラルファマドール星の動物園でともに捕らわれていた女性モンタナ・ワイルドハックがつけているロケットの表面には、こんな言葉が刻まれている。
神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ――God grant me the serenity to accept the things I cannot change, courage to change the things I can, and wisdom always to tell the difference.――(p.246)
これと同じような言葉は文中何度か出てくるものであるが、おそらく時間の制約無く過去と現在を行き来する中で、既に決められたことはどうにも動かしようが無いという悟りみたいなものが生まれたのでは無かろうかと感じられる。既にこれから起こることを知っていても、それを回避したり止めたりはできるものとできないものがある。ある大きな物事は自分ひとりが頑張ってもどうしようもない(国際的な大規模戦争の中で、果たして攻撃計画を一個人が止めることが可能か?)ことがあると分かってないと、この時間飛行は非常に耐え難いものになるだろう。そうであるからなのかビリーはどの時間でも、そこで傍観している人のように振る舞っている(ように見える)。それはある意味、ひどく無気力に見え、だからこそ一緒に逃亡している男がうまくいかなくて死んでいくことをビリーのせいにしたり(「何もしなかった」「生きようとしなかった」ことに原因する無能さが反感を買ったのだろう)、また、ビリーはそんな自分を空色のカーテンのマントと寸劇用の銀色のブーツというおよそ戦時中とは思われぬかっこうでドレスデンまで引かれていくのだろう。そこにある何もかもが滑稽で、何もかもが哀しい。
この小説は実際にドレスデン空爆の中にいたヴォネガット自身の半自伝小説と言われているらしい。確かに空爆に遭ったり、またその後と見知らぬドイツ人が血縁者であることを知ったり(ヴォネガットはドイツ系移民四世)といったことが出てくるのだろう。果たして空爆の際、ヴォネガットはどこにいたのだろうか? ビリーと同じく屠殺場の生肉貯蔵庫の中?
時間が細切れに分断され、しかも時系列にものごとが進むのではないため一見とりとめもない散文の集まりに見えなくもないが、やはりそれは紛れもなくあのドレスデン爆撃に続いていて、先に待ち受けるもののそこはかとない哀しみを感じつつ読み進めることになる。ビリーがそれを変えなかったと同様、我々もこの物語を変えることは多分できないのだ。
ドレスデン爆撃を、ヴォネガットは史上最大最悪の爆撃と書いており、日本人のわたしにとっては「じゃあ、広島・長崎の原爆はどうなるの?」とやはり気になってしまった。しかし、やはりそれを目の前で見たというその体験とそれが与えた衝撃は、第三者が見聞きした話よりもずっと、その人に大きな影響を与えるということなのだろう。そして、原爆は爆撃という一時的な死では終わらずに、その後長く原爆症に苦しめられ、それが元で命を落とす人々が多数存在するが、その悲劇とはまた別の衝撃があるのだろう。ひとつの都市が完膚無きまでに破壊される。空から雨霰と降ってくる爆弾と機銃掃射で、その地に生きとし生けるものすべてがなぎ倒される。この小説に寄れば、地下壕の中の人たちも残らず死んでいたのだとか。その完璧さは、正義の思想から来るものとは言え、あまりにもむごい。この爆撃も、広島・長崎の原爆も「あの作戦は戦争終結を早めるために、ひいては世界の平和のために必要なものだったのだ」と言うが、そうされた側からはとてもそれで納得はできない。それは、実際にそういう状況にしているのはここで殺される人たちではないからではないか。あちらから見れば一緒だろ、ということだろうが。訳者あとがきによれば、ドレスデン爆撃でも、軍人の死者はほとんど無かったそうだ。広島・長崎も似たようなものだろう。
過酷な運命になすすべもなくただ立ち会ってしまうというのはその後生き続けていく中でも大きな苦しみになるに違いなく、その後ヴォネガットがその体験と折り合いをつけるためにもこのような行為(小説として消化するということ)が必要だったのだろうことは痛いほどに察することができる。そしてその結果その気持ちにふさわしいものとして出てきた言葉が「そういうものだ」だったのだろう。
訳者あとがきで触れられているが、ここには他のヴォネガット作品に登場するキャラクターが勢揃いしている。ドイツに寝返ったアメリカ人劇作家ハワード・W・キャンベル・ジュニアは『
母なる夜 (白水Uブックス (56))(カート・ヴォネガット/池澤 夏樹)』の主人公であり、戦後、精神を病んで入院した際隣のベッドにいたのはエリオット・ローズウォーター元歩兵隊大尉で『
ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)(カート・ヴォネガット・ジュニア/浅倉 久志)』(これは、ABC六本木店の企画で翻訳家の古屋美登里さんがお勧めされてた作品ですね)の主人公、彼が大好きな作家というのがSF作家キルゴア・トラウト(彼はローズウォーターのことを「ありゃきちがいだ。わしは世界の大統領になるべきだと書いてあったよ」と言い捨てる)で、後にビリーが付き合うことにもなる。トラルファマドール星人は『
タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)(カート・ヴォネガット・ジュニア/浅倉 久志)』に出てくる、人類すべてを操る存在であり、飛行機事故の後病院で同室となるハーヴァード大学歴史学教授バートラム・コープランド・ラムファードはここに出てくる「時間等曲率漏斗」と一体となり全知の存在となって出てくる。それらのキャラクターが大集合ということで、やっぱりヴォネガットにとっても自分の核となる作品という意識があったんだろうなあ、なんて思いを馳せてみる。
これを読んで、ヴォネガットが亡くなったときにみんなが「そういうものだ」と書いている意味がやっと分かったし、yomoyomoさんが掲載していた挿絵の墓碑銘が、いかにヴォネガット自身に重なり合っているかが実感できたものであった。ヴォネガットを読んでいないと言ったら、すかさずこの本を薦めてくれた(「これだけ読んでいれば間違いない」とも)MZTさんに感謝します。でもって多分、これを読んだらやっぱり他も読まないといられなくなりますね。ああまたきっかけを作ってしまった。
リブロ渋谷店にて。
『世界人類が〜』は、ずっと気になっていたもので、テーマは面白そうなんだけど中身を見たら女性の手による日記を引用したような形になっていて、ちょっといいかどうか判断つかなかったので保留していたもの。片岡義男の小説集は、朝日新聞で鴻巣友希子さんが書評していたので気になっていたもの。鴻巣さんが書評を書いているのは好みのものが多いので。
リブロ渋谷店独自企画の「ウラナツ。」コーナーがあった。最初、どこか分からなくてうろうろ探し回ってしまったのだが、レジの対面のところかー。その裏側なので余計に分からなかったのと、あのフジモトマサルのペンギンがやっぱり目印なので、近くに看板が欲しかったなあ(それを目標に探していた)。オリジナル推薦文付きの帯のペンギンもフジモトマサルの手によるものであり、しかも何パターンか存在する! さすがにコンプリートは無理か。ウラナツ。を購入すると、オリジナルブックカバーを付けて貰えるのだそうです。うーん、このウラナツ。リストって無いのだろうか。どんなセレクトなのか、ちゃんと見てみたいんだけど(『スローターハウス5』は入っていた)。
早いものでもう4回目。前回別の用事があって行けなかったのでだいぶ間が空いた感じがする。
今回は、今までも議論の中で何度か出てきた「どうせアメリカの外圧なんでしょ」とか「世界標準は70年」などといった声を捉え、それについて真面目に考えてみる、といったものか。ところどころぼーっとしていて発言者の趣旨が分からないままになってたところがあるが、んー、まあ、大枠で理解できていればいいか……。
今回のパネリストは、東大名誉教授の中山信弘氏。この方の印象はすこぶるいい。法律の専門家、そして知的財産法関連の審議会の委員を務める立場での参加なのだが、後ほどクリエイティブ・コモンズ・ジャパンの代表であることも明かされた(いや、明かされたって、秘密なわけではないんだけど)。意見は明確で、「何が国益にかなうか、理にかなうかをきちんと吟味しなければならない」「文化の発展にどう寄与するかを考えなければならない」と、安直な70年への延長に疑問を呈している。基本的に、50年から70年への延長は更なる創造活動を阻害し、また権利者にとってもメリットはほとんど無いと説く。延長で得をするのは本当に一握りの権利者たちだけであり、また、こういった声を挙げているのは実際には権利者「団体」であり、個々の権利者の声が聞こえてこないという話もあった。
ACCS理事の久保田裕氏は、権利者団体と言えるわけでどういう意見になるのか楽しみだったが、やはりこの方も非常にまっとうだった。現在は、著作物がきちんと保護されていない、まずはその環境を作り権利を行使できる状態にしなければ50年が70年に延長されようが何も変わらないのではないか、という意見には深く納得。この方は"enforcement"ということばを多用していたが、これもまた主張を象徴するものだと思った。契約という行為も、まだまだいい加減なものであることが多いという指摘もあった。
CCJP理事のドミニク・チェン氏は、最初姿がちょうど見えない位置にいたので、てっきり代理の日本人が来てたのかと思うほど日本語がうまかった……第一言語は何なんだろう。第1回トークイベントの際に青空文庫の富田倫生氏が紹介した芥川龍之介の「後世」を引用していて、なんかこのタイプしながら出てくる言葉がきれいだなあ(一種のタイポグラフィだよなあ)なんて思った。またこの人は舞城王太郎の「リアルコーヒー宣言」も紹介しており、ここに舞城が出てくると思わなかったのでびっくりした。そのほか紹介されたのは、高橋悠治氏の『水牛楽団ができるまで』(白水社・絶版)の中の文章。やはり様々な情報が集まっているということなのだろうが、ワンフェスの「当日版権システム」の話まで紹介したのは驚いた。ワンフェスに行っている人が知人にいるのでそのレポを見たり読んだりはしたことがあるのだが、確かにあれの著作権ってどうなってるんだろうと気になったことはあったんだった(この件については、Wikipediaの「wikipediaj:ワンダーフェスティバル」や「wikipediaj:当日版権システム」に説明がある)。今年は、コミケにも(状況視察だろうけど)行ったようだ。
話題は、
の3点について議論されたが、司会役の福井健策氏のスムーズな司会もあって、随分分かり易い場になったと思う。まあただ、思ったよりも「対立構造」が作られなかったことで議論が伯仲しないということを気にされていたが、こういう回もあってもいいと思いますよ……。
中山氏もおっしゃっていたが、やっぱり問題なのは権利者ではなく権利者団体が出てきちゃうことなんだろうなあ。いろいろと残念な状態になった三田誠広氏にしたって、彼は個人というよりは日本文藝家協会の代表(現在副理事長)として喋っている感があり、だから発言に魂がこもらないし議論が発展しない。そんな傀儡、要りませんよ。
今回は具体的な議論まではいかなかったものの、「日本モデル」というものをこれから模索していこうという結論で終わったので、今後は更なる発展が期待できるのではないかと思っている。まあそれが採用されるされないの問題では無いのは分かってるんだけど。
今回は会場からの意見や質問も多数とり、なかなか面白いものもあった。確か文化庁で著作権延長に関する小委員会の実務を担当された方だったかがいて、「こういった分科会では、アメリカの要望書に関してはあんまり考えてない」といった発言があって「へー、実態はそうなんだ」といった雰囲気になった。また、わたしの席の近くにいた人が発言したのだが「法政大学の白田秀彰です」って、この人がそうだったのか(笑)! 周囲もそんな感じで独特な声音も相まって会場は一気に和やかな空気が広がった。その白田さんがおっしゃっていたのが面白かった。「いっそのこと、2種類に分けたらいいのでは。普通は50年で、ミッキーやマイクロソフトやそういう特別にされたい人のは登録料を払って貰って70年にするって実験するのはどうですか?」という提案(笑)。会場も「そうだそうだー」という雰囲気になったが、それに対する中山氏の答えは、「いやー、社会科学というのは、実験ができないのですよ。それと、国がお金をとるというのはなかなか難しい」といったことを言っておられ、まあでもこれってみんなが腹の中で思ってることだよなあ、と思った。
そのほか重要な発言は沢山あったのだけれど、多分そのうちIT戦士の記事が出るんだろうからそちらを……ってそれじゃ書く意味無いなー(苦笑)。「21世紀はヨーロッパに対する途上国の挑戦の時代」とか、カバーCD問題とか、アニメ放映後即字幕翻訳されて共有される件とか、そういう字幕職人たちが日本の版権を持つところに盛んにFAXしてきて「もしこちらの国でコンテンツを売るときは我々に担当させてくれ」とアプローチしている話だとか、地財法は生まれたときからその性質上グローバルなものであり国境はない、とか、いろいろあったのですよ、とだけ自分のためにだけでもメモしておく。
その後、懇親会に参加する人たちとは別に、ひとりで飲みに行った。以前にも二度ほど来ているカウンターだけの店で、料理も置いてある酒もうまい。わたしが入ったときは二人連れのサラリーマンがいたのだが、しばらくすると勘定をして出て行ってしまった。今日は本を持たないで来てしまったので、途中の書店で「
文藝春秋 2007年 09月号 [雑誌]」を買っていったのだが、結局この本は殆ど開くことなく終わってしまった。というのも、この後客がずっと来なかったので、店のご主人とずっと話す羽目になってしまったからだ。この店を始める前はどんな店にいたのか、とか、ご家族のこととか料理のこととかいろいろと話は(どうにか)弾んでくれて一安心。そんなときにひとり客が入ってきて、何となくホッとした。ところが、その後が……この人もまた話が好きな人のようで、お酒の話が豊富。聞けば本も出しているそうで(しかもそれ、ずっと買おうかどうか悩んでたヤツだよ)、それで日本酒を燗付けしたり、つまみを分けて貰ったりしながらいろいろ話してたらあっという間に電車なんて終了している時間に! 久しぶりにタクシー帰りをやらかしてしまった。トホホ。あー、でも楽しかったなあ。
異人類白書(浅暮 三文)』ポプラ社のPR誌「asta*」に連載していたものをまとめた一冊。異人類について研究している柴門教授と助手の吉元さんが、身近に潜む異人類のフィールドワークを行うというもの。回ごとに一種類の異人類を採り上げていて、それ用に作り出した捜索道具を携帯して外へ出る。もちろん、その間は休講だ(なんか、すごくいい加減な先生だなあ(苦笑))。
助手の吉元くんは女性だが、始終おいしいものを食べている。博士の質問に「もぐもぐ」という擬音で返事をする(?)こともたびたびあり、かなり部下としては問題あるが、まあ、天然という設定なのだろう。因みにこの吉元くん、かなりのグルメというかその手の情報収集に余念が無く、うまいものとあらばどこへでも、というお人。というわけで、浅暮さんの十八番の東京持ち帰りB級グルメ案内にもなっている。1話では銀座チョウシ屋のコッペパン、神楽坂五十番の肉まん、吉祥寺サトウ肉店のメンチカツ、それに名前が挙がるだけだが、京橋(というより銀座?)のラーメンの共楽なんてのもある。そういえば、これまたよく歩く話なのだ。まあ、フィールドワークが研究の主体だから当然ではあるのだけれど、1話では京橋から入る地下トンネル、2話では新宿から四谷辺りまで。東京にいる人ならば普通に歩くけど、これって地方の人だとちょっと考えられないかも。こんなに歩く小説書くのは他には古川日出男くらいですよ!
1話は穴居人。ある日家の中の小物が無くなったことに気付いた博士は、排水溝から人の声がしたのを感じ取る。そこで下水道に入って探索するのだが……。身近に起こるちょっと不思議だけどすぐに忘れてしまうような出来事と妖怪や説明つかない生命体や怪談などを組み合わせて「あの正体はこれだったんだよ!」とやる訳だが、うーん、1話目はびみょー。その謎解きにも穴居人にも魅力が感じられなかった。普通、1話目は良くても2話目になると……となるところだが、ねえ。
2話は盲点人。目の端にちらりと人の影が、と感じることがあるけど、あれですね。あれを探すのに今度は眼鏡に魚眼レンズを付けて探し回るのである。すれ違った人は不気味に思っただろうなあ。ところでこの話はまだ途中までしか読んでないけどわりと好き。魚眼眼鏡で歩いている最中は吉元くんが通りにある名店の案内をすることでどの道をどう通っているのか分かるような形にし、それに応ずる博士の台詞にはかならず「あ、どうも」とか「こりゃ、どうも」とかの言葉が入る。一体何なのかと思ったら、ちゃんとオチが用意されていた(笑)。しかも、それをおいしく使ってるし。この辺の仕上がりのきれいさが面白さに繋がり、ちょっと唸らされた。バーゲン会場でもみくちゃにされる博士の様子も漫画チックでよろしい。
というわけでついでだからこの作品のグルメマップをGoogleマップで作ることにした。アドレスは以下の通り。
いやぁ、こんなのもほいほい作れるほど、ウェブって便利になったのねえ。浅暮さんのデビュー2作目『カニスの血を嗣ぐ』に出てきたB級グルメマップを青木みやさんが作ってくれたときは、これは無かったものなあ。あ、これもグルメマップ作れるな。元データはこちらにあるし。
リブロ渋谷店にて。
わー、ばかばか! 何のため今日はこっちの店にしたんだよ。ウラナツ!の一冊を買ってブックカバーを付けて貰おうと思ってたのに「カバーはおつけしますか?」と聞かれていつも通り「要りません」って言っちゃったよー。再度チャンスはあるかなあ。いや、オリジナルの帯だけでもすごいかわいいんだけど。
三省堂書店神保町本店による、世界SF大会=ワールドコン開催記念企画「ブックフェア『SF★再発見!』」のトークイベント第2弾。 二人の掛け合いがなかなか楽しかったが、まとめてレポせよ、というとなかなかにキツい(笑)。あとで、キーワードなどは書き上げてみたいと思う。それまではこのロボット看板(書店の立体看板だったらしい)をお楽しみください。
神保町からは日のあるうちに退出し、自宅に帰った後に相談して寿司屋へ。なんだか今日は、にぎりよりは刺身に行ってしまったなあ。岩ガキはまあ普通だったが、かつおがとてもおいしかった。脂が適度に乗ってて、あまーい。包丁仕事も見事ですね。写真は、夫が一切れ食べた後なのでちょっとバランスが悪いですけど。あと、まごちなどのにぎりがうまかった。
これはPHSのカメラで写したもの。なかなか進化してきたなあ、とは思います。普通の携帯カメラには数段落ちるけど。
三省堂書店神保町本店にて。8F特設会場のSF古本市(*付き)と、普通の売り場にて。
文学 2007年 08月号 [雑誌]』
スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)(カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤 典夫)』に出てくる「そういうものだ」の回数は106(暫定)yomoyomoさんのところで紹介されている「そういうものだ(So, It goes.)」の出現回数だが、先日『スローターハウス5』を読み終わったので、早速バラしてスキャンしてOCRかましてみた。これはそういう状態で読み取ったものであり、まあ、お遊びだと思ってもらっていいのだが、それで出た答えは106。本当は107回出てくるのだが、このうち1つは伊藤典夫さんによる解説で引用されるものなので、それを省いてみた。「そういうものだ」「そういうもの」「そういうも」までは結果が同じ(103)だったのだが、それよりもちょっと汎用的なフレーズになる「そういう」で検索したら111。その中で明らかに違う文脈で使われているもの4つとと解説の1つを引くと106という数字になったのだった。
見てみると、なぜか中黒が入っていたり、「も」が「、屯」と認識されていたりするのですよ。うーん、一筋縄ではいかないなあ。

世界SF大会=ワールドコン開催記念企画「ブックフェア『SF★再発見!』」企画第4弾(済みません、昨日の記述は間違いでした)。客を見るとかなり知った顔率が高くなる。後で聞いたらこの企画、予約者が9人しかいなかったそうだが、じゃあわたしはその中のひとりかよ! でも、無事に客席はほぼ埋まっていて、SFの人たちの底支え力を感じました。
トークに関しては面白い話がたくさんあったんだけど、これってどこまで書いていいのか分かりませんよ(苦笑)。多分箇条書きになると思いますが、後で書き足します。
わたくし率 イン 歯ー、または世界(川上 未映子)』トークショー前に何とか読了。しかし呆気にとられた。これについてもあとで書く。
わたくし率 イン 歯ー、または世界(川上 未映子)』刊行記念川上未映子×豊崎由美トークショー@三省堂書店自遊時間内上島珈琲店その後はSF企画から離れてこちらへ。これについてもあとで書く。
わたしが本にサインをいただいたのはメッタ斬りトークショーの打ち上げの席でだったので(直接話すのはドキドキでしたよ)、先日のトークショーでサインを貰った人に見せて貰ったらサインの横にはんこが付いててうらめしくうらやましくなった!
まあ、それはそれとして、このはんこ(手作りとは思わなかった)果たしてどういう意匠なんだろうと見せてくれた人たちとひとしきり首をひねったのだが「うーん、一番上は円?」みたいな感じでいまひとつ分からない。
で、昨日直接円城氏に伺ってみたところ、何のことはない、向きを変えてみればいいと分かった。分かれば簡単なんだけどねー。
普段は戦争物とか読まないんだけど、これはSFセミナーで話を聞いてたら面白そうだったし、小松左京の言う「人間が書けてない」とはどんなもんかを見たくて読み始めている。いや、文章もこなれてるし、結構うまいですよ、これ。小説を書いたのはこれが初めてだとは思えないよー。まあ、blogをずっとやっていたようだし「書く」ことに慣れはあるんだろうなあ。あ、あと、漫画とかで同人活動はしてるって言ってたもんなあ。小説という形が初めてだっただけで、そのための準備はできているのです。
近未来、9.11以降の秩序が乱れた世界が舞台。世界のあちらこちらで内戦が勃発し、主人公らはその「秩序を乱すもの」たちを抹殺するために契約された暗殺者たち。ちゃんとワシントンから命令書が出る、れっきとした国家事業だ。軍人になるべく来たわけではないが、たまたま入った会社が段々そういった方面にシフトしていったという設定がなかなか面白かった。近未来は、軍事面でもアウトソーシングなんだね。
暗殺対象のところに送り込まれる描写だが、鞘のようなものに体を入れ、上空から投下される。複数人チームで夜を徹して行軍し、夜が明けないうちに暗殺を実行、というのがパターンだ。訓練を受けているので失敗はあまり無いし、危機の際の咄嗟の判断も仕事のうち。投下された鞘状のものはいずれ土に還るという仕組みで、なるほど、環境面(?)からも機密面からも、それって大事よね。しかし、その装置には筋肉組織が用いられたりして、そこはかとなくイヤ感が(笑)。いや、なんというか、金属のように硬いものの繋ぎに肉っぽいものが使われるって、気持ち悪くないですか? しかも、それは自動する。色は肉色じゃないかも(でも、想像したときは肉色だった)知れないけど、もうこれは感覚的なものですね……。
先日のトークでは、読んだ人の感想などで「主人公がこういった仕事をする人にしてはナイーヴ過ぎる」「アメリカ人はもっとがさつ」といったものがあるようだけれど、逆にこんな感じだからわたしはすんなり物語に入れたんだよなあ。心も身体もマッチョな人間ばかりが出てくる戦記物なんて掃いて捨てるほどあるし、全然好みじゃない(から興味もなかった)。確かに、最初に名前が出てくるまではてっきり日本人だと思ったけどね(笑)。
えーと、まあ、まだ第1部が終わったばかりなので、粛々と読み進めますよ。いやー、今年は今までで一番SFを読んでる年じゃないかなあ。
昨日帰宅時に手持ちの本がないのに気付き、ヤク切れにおびえていたら鞄の中に講談社のPR誌「本」があって一安心。パラパラと中を見て堀井憲一郎の連載があるのに気付いた。なんでも落語を通して日本を再発見する、みたいなテーマでやっているようで、今回の話題がタイムリー(いや、狙ってそうしたんだろうけど)なことに大相撲。「花筏」「軽業」「宿屋仇」などを採り上げ、「元々相撲ってさ、見世物小屋で金取って見せてたようなもので、別に神事とかスポーツとか関係なくね?」という結論になっていると思う。
そういう神話的部分をうまく取り入れて、それらしい興業にはなってるけど、関係はない。明治のご一新を髷を切らずにすりぬけたのがよかったね。いまの大相撲が神話や神事と関係があると言うのなら、たとえばK-1だって自らの歴史を語るときに、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の対決からつながっていると主張しても問題はないし、あながちウソとも言い切れない。アントニオ猪木とジャイアント馬場の歴史を、相撲節会から語ってもおかしくない。(p.15)
髷に注目するところがいいねえ。
当人というか、当人サイドの熱心な支援者が書いているものは、そもそもの起源を作り出すところから始まっていて、ペダンチックなだけです。自分の歴史を本人に語らせると、だいたい起源の部分でウソをつく。(同)
古事記なんかも天皇の血筋の正当性を補強するために書かれたもんだもんねえ。中国では征圧する国と帝が変わると歴史書を書くという話だけど、それって結局、自分たちがどれほど正当性のある統治・支配者かということを無理矢理証明したいからだもんね。
元々色んな地域に相撲興行があり、異形のもの同士が取り組んでいるのを見て楽しんだり、大きい人(というだけで一種の異形)を見て感嘆する(象を見るようなもの?)といったものだったんだねえ。一般人が飛び入り参加してそういう人たちと取り組むこともあったんだそうな。
相撲取りと審判と記録員だけで相撲が行われ、観客はまったくおらず、その記録だけが残っている、というようなことは一切ない。勝ち負けや記録だけ残しても意味はないのだ。いつも人が見る前だけで取られていた。(p.15〜16)
元々、人気と実力があったのは大関で、横綱というのは名誉職に近いものらしいことも初めて知った。へー、へー。
他の回は読んでないんだけど(先月号はスキャンしたばかりだから、帰ってから読んでみよう)、期待できる。堀井さんお得意の「調査」と、そこから導き出された結果を料理し思考するその過程がすんなりとひとつの文章の中に収まってるんだもんなあ。いつもは週刊文春のすちゃらかでネタっぽい記事でしか彼の仕事に触れてないんだけど、あれがこういう仕事を導き出す素地となっていることも、何となく分かる。本にまとめられる日はいつだろうか。
TOHOシネマズ六本木スクリーン5にて。
これは二つの作品を合わせ(それぞれカットしているところがある)そのほかにフェイク予告まで入れるという手の込んだもので、ただネックが、映画おたくのタランティーノに付いていけるかという不安(「キル・ビル」くらいにメジャーになってくれればまだ敷居が低いんだけど)と、ホラーとスプラッタ苦手だし、仕事帰りに見に行くとどう考えても終電逃しコースになってしまうからだ。しかし、それがなんとかなりそうな目処が立ったので座席予約して六本木に向かったらあの雨。こ、これじゃ事前に書店に立ち寄る計画とか、タリーズでコーヒー飲んで本読んで時間を待つとか全部おじゃんだ! 仕方ないので屋根のあるところを伝いながら映画館に飛び込み、ベンチで過ごした。
で、全然中身に触れないで終っちゃうのは何だけど、これは面白いよ! たぶんロングバージョンもそれなりに面白いと思うんだけど、この二作のコラボ具合とか見るのも楽しいし、何しろこの手の映像は大画面で見るに限る。そして、「デス・プルーフ」はまぢで最高でした! もし時間に余裕がある人ならばぜひ見に行ってくださいませ。ああ、ロングバージョンも見に行こう。楽しみ。
引き続き。この近未来世界では、アメリカが世界の警察なんだね。そんな訳で各地の紛争や独裁などのトラブル解決のお手伝いとして、「暗殺」などの手段を用いている、と。しかし、暗殺したあとってその国は一体どうなってるんだろうね。そうして、そんな中で暗殺指令が出ているがなかなかしっぽを掴ませないアメリカ人ジョン・ポールなる人物に行き当たる。彼が行くところ行くところ紛争と大量殺戮が発生する。そしてその後、セキュリティの網をかいくぐり、するりと他国へと逃げ延びてしまう。一体、彼は何者で、どんな目的でそんなことをしているのだろうか、というところだ。主人公らはジョン・ポールに照準を合わせ、諜報活動へと入っていく。
ガジェットのディテイルづくりが結構うまくて、いかにも近未来なら、といったリアリティもある。あくまでも地に足の着いた巧みな設定作りにちょっとした感動を覚えざるを得ない。文章も話の運びも水準以上であり、決してジャンル読者だけを満足させるものでは無いことも感じさせる。普段ミリタリーとかSFとかこの手の作品を読まない(まあ、わたしなのだが)人にも是非手にとって欲しい作品だなあ。
ところで、誤植(?)があった。プラハに赴き、ジョン・ポールの愛人と思われる女性の部屋で男性ものの香水の匂いを嗅ぎ当てる(実際には、鼻の穴に貼り付けたセンサーが、だが)のだが、このオードトワレのブランドが「ベンハリガン」となっている。しかしこれでGoogle様にお伺いを立てると、すかさず「もしかして: ペンハリガン」と聞かれるんですが(笑)。イギリスのブランドで、男性用フレグランスとして愛好者もかなり多いようですね。大人の匂い、なんだとかで、確かにジョン・ポールのイメージには合っているかもなあ、とは思うのでした。
アットコスメでの検索結果:ڥϥꥬξʰ - åȥʡ(一応、メンズフレグランスに絞っている)
それにしても、小松左京はこの作品を読んでどこが「人間が描けていない」と感じたのかなあ。さっぱりわからん。
「本気のスパークリングカクテル。」というキャッチフレーズで売り出した缶カクテルで、ジントニックを飲んでみた。しかし、わたしの知っているジントニックでは無い! ジンのドスの利いたパンチ力もアルコールもライムの清涼感も中途半端でモヤモヤしている。こんなのをわたしは求めてなかったんだー。本気っていうからどのくらい本気なのかわくわくしていたのに、それだけにがっかりだよ。
一応、全種類飲んでみようとは思うけど、一回りしたらもうさよならかも。
まあ、人によってはこういうのが好きなんだろうから、わたしと違うものを求めている人にはお勧めではあります(どんな勧め方だ)。
マツムらさんのところで紹介(こことかこことか)されていたパイプロイドなるもの。見ると、ロボットを象ったペーパークラフトで、メモクリップにもなっている。その名の通り紙製のパイプを加工して形作るもので、ムービーなどを見てても楽しめそうな作りなのが分かる(もうちょっと手元を見せて欲しかったな)。今年のグッドデザインアワード2007にも出品しているようですね。1つ500円という価格も嬉しく、全種類揃えたくなったり友達に気軽にプレゼントしたくなったりしますよー。今年のワールドコンなんかにいかがですかね。というか、誰かにサインを貰うときに言葉がうまくない代わりにこれを渡すのもいいかも! 素材が紙だけに劣化も早そうだけれど、リペアのアドバイスまであって頼もしい。デザイナーさんのblogも楽しいですね。
通販ショップでの販売も行っており、ここでは限定モデルもラインナップされています。東京だと、国立新美術館のミュージアムショップでも取り扱っているのね。ああー、ナディッフ(というか、BunkamuraのNaDiff Modern辺り)辺りでも取り扱ってくれないかなあ。
あれから1週間経った。待ちに待った朝日新聞夕刊(8月28日付)である。早速見てみたところ、期待していた以上の採り上げられ方でびっくりした。天野さんは今(ってホントの今?)ケアンズに滞在しているそうだけれど、北村さんが紹介していた文章を読んで感銘を受けたご様子。
さらに些細なことをクローズアップする様子がとても《短歌的》です。「薔薇の芽に雨が降る」ことを「くれなゐの二尺伸びたる」と歌い出すように「コートが買えなかったか」ことを「お約束の新宿伊勢丹死の彷徨」と書き出す。
などと、その文章のテクニックに照準を合わせた批評をされており、その分析結果には改めて読んでいるこちらも唸らされる。
おそらくこういった文章は、ご本人に聞いても「え、特に工夫なんてしてないよ」と謙遜されるだろう。まあ、半分は多分本当。それは天賦の才とか、センスを身につける素養がある、ということなのだろうけれど、いい文章が書ける人というのはやっぱりお会いしてもどこか凡人とは違うなあと感じる次第。
そして、北村さんも感じた「短歌的」といった印象をこのように分析されている。
密度がちょっと濃いめで、リズミカル。それからいつもは隠されているその人の「魂」がちらりと見える。そんなものに触れると「あ、《短歌的》」と感じるようです。コンパクトであることも忘れずに。
天野さんもすっかり岸本さんの文章の虜になったご様子。思わずブックストアに向かったはいいが日本語の本が無く、その衝動を帰国まで慰めているところとか。「地団駄を連打」という一風変わった言葉遣いに、思いの強さが見え隠れしているようだ。
合間合間に話の流れに合う短歌を挿入しつつ文章のリズムを作り上げているところなど、さすがだなあ、と感じます。最後に書かれたご自身の短歌が素敵。
旅先を選ぶときより真剣に旅先で読む文庫を選ぶ 天野慶
多分、読書好きであれば誰でも経験していることですよね。
TOHOシネマズ六本木スクリーン3にて。えーと、後で書く。しかし、CGもきれいになったもんだなあ。
ABC六本木店にて。
S-Fマガジン 2007年 10月号 [雑誌]」「S-Fマガジン」はワールドコン直前特集。ワールドコンの歩き方という特集ページもあります。早速雑誌をばらしてPDFに。ああ、ちょっともったいないけど、仕方ないなあ。大森さんのコラムで、先日のゴーレム降臨トークショーの模様が詳しく書かれていて、始まりから30分丸々聞けなかったわたしにはありがたかったっす。注釈もちゃんと付いてるし。
プラハに潜入し、ジョン・ポールの愛人と目される女性ルツィアと接触。やがて文学の話題を契機に、心に少しずつ踏み込んでいく。それはあくまでもジョン・ポールの情報を引き出すためなのだが、今のところはうまくはいってない様子。果たして素なのか、警戒して隠しているのか。そんなとき、あるバーへ連れて行かれる。このバー、何か変だと思ったら、入り口で認証を求められなかった。そして、ビールの代金を紙幣で支払ってる! ここは、高度情報化された監視社会の世の中、ちょっとした息抜きをしようと経営されている場だったのだ。そこで初めてシェパードはこんな自由もあるのだと知ることになる。
段々核心に近づきつつある感じがする。我々は自由をある程度犠牲にし情報を受け渡すことで、またある種の自由を享受している。そのバランスだなんてそれはもう価値観といったものだろう。今までのシェパードの仕事は他国に潜入して暗殺、という短いスパンで終わるものだったのでこのような経験は初めてなのかも知れない。ヨーロッパの古い街並みの中、アメリカとは違った社会があることを実感する。それは、価値観の変化のきっかけとも言えるのかも知れない。
また、もうひとつは「人が人を殺す」ことの問題。シェパードは二種類の「殺人」を行っている。一方は職業上のもので、これは上からの命令により執行しているもの。自らの意志ではない、と思っている。そしてもう片方は、実の母親。寝たきりで意識を回復しない母の身体から生命維持装置を外す許可を自ら決断して与えたことに、大きなトラウマを持っているのだ。そこに覆い被さってくる多様な死とともに彼は「死」にまとわりつかれることになる。そんなとき、想像の中の母さんは言う。
「あなたはこう思っているのでしょう。いつも自分は、他人の命令に従って色んな人間を殺してきた。それがさらなる虐殺を止めるためだなんて言われていても、自分は銃だ、自分は政策の道具だ、と思うことで、自分が決めたことじゃない、そういうふうに責任の重みから逃れられた」(p.115)
そして重ねるように
「けれど息子さん、わたしだけじゃないわ。いままで殺してきた将軍や大佐や自称大統領だって、あなたが自分で決めて自分で殺したのよ。あなたはそれについて考えることをやめてきただけ。自分が何のために殺しているのか、真剣に考えたことなんて一度もなかったでしょ」(同)
これはシェパード本人も明かしているように他人の姿をした自分であり、自分で自分に責められている。つまりは、自問自答している状態だ。死者との対話でしか成り立たない思索。彼はここから出ることは、果たしてあるのだろうか。
夜は神楽坂の料亭で行われた、ある人のお祝いの席へと向かう。こ、これが料亭か! 殆どの人が初めて。今回はせっかくのお祝いの席だし、ちょっと張り込んで普段行けないところにしよう、ということになっていたのだ。3階の大広間に案内され、コの字型に並べられた席にくじ引きで決められたところに座る。思いっきり上座じゃないことにちょっとホッとした。
料亭らしく「ご返杯ごっこ」などもやってみるが、何故かみんな杯片手に集まってくる。それじゃ「返杯」にならないって(笑)! お料理もおいしく、こんなゆったりとした席ですごい人たちに同席して贅沢に過ごせるだなんて。自己紹介も行われたが、主賓がみんなホントに好きなんだなあ、と感じることができる。ホント、才能と人柄です。
今回は思い出班ということで広間のあちこちを飛び回ったので、お酒は過ぎなくて済んだような感じ。お座敷を堪能したあと、二次会に流れ、その後某所で純国産の線香花火を楽しんで解散となった。この、最後の線香花火が結構良くて、みんなのいい思い出になりそうな一日でしたよ。
二次会では記憶スケッチ大会なども行われ、朝青龍を描いてちょっとした下克上が起こったりといろいろ。基本的に画伯はメルヘンだね。魂が抜けそう。そんな中、「しゃちょう」という綴りをどう打つかで議論になり、"shatyou"説が出たがその場のほぼ全員が「ええー、それで変換できるの?」とその場で携帯などで確認し始めた。そんな中、主賓の携帯電話に突如トラブルが起こり(トラブルはいつも突然のものなのだが)、中に入っていたデータすべてが消えてしまうという被害に遭った。これが俗に言う「shatyouの呪い」か……(ありませんて)。
ところで、この話のときにトリビアを教わった。ローマ字表記のひとつ「ヘボン式」だが、これは人の名前から取っている。そしてこのヘボン氏だが、当時のことで耳で聞いた言葉そのまま表記したもので、本当(?)はヘプバーン氏なのだそうだ。おお、なるほど! ひとつ賢くなったぞ。そしてこの"shatyou"だが、ヘボン式と日本式の混成で、だからこそみんな耳で聞いて違和感がありすぎて「あり得ない!」と言っていたのだった。まあ、実際表記を見れば納得はするんだけれど……。
リブロ渋谷店にて。
まだウラナツ。フェアはやっていて、ようやっとオリジナルカバーを掛けて貰えた(前回はいつものように「カバーは要りません」と言ってしまったので掛けて貰えなかったorz)。
_ よんひゃん [なるほど、オリジナル言語で読める幸福というのは、気づきませんでした。ほんとにそうですね。リアルタイムで読める、さらに..]
_ にじむ [「海外文学読んでるみたいだなあ」と思った時にそれを感じました。やっぱり生の言語で読めるというのは嬉しいですよね。それ..]