月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』やっぱり、初期短篇集とはかなり趣が異なっているのが分かる。初期のものも自分の体験を元にしたテーマが多く、いくらか私小説風ではあったのだが、後期のそれは、もう表面的には全くその通りである。ただ、目の付け所がちょっと違うというか、読者に提示する方法が随分と手が込んでいる。私小説風の、全く違う何か、になっているのだ。というのも、私小説というのは基本的に自分自身をさらけ出すための装置であるようにわたしは捉えているのだが、小島の場合、自分というフィルタを通した何かを狙っているように見えるからだ。いや、単なる印象なのだが。
なるほど、こう来たか! 内田魯庵から入って、漱石の「硝子戸の中」に話題は移っていく。内田魯庵は単なる前振りで、そういう意味では「硝子戸の中」もまた大切なアイテムではあるのだが、それだけに止まる。
主人公(≒小島)は、「硝子戸の中」から、若い頃に思いを寄せた未亡人について思い出す。それは、その人の兄の蔵書から借りた英語訳の「硝子戸の中」が、彼女の記憶を引き起こす装置となっているからなのだが、また、そのときの体験を元に『女流』や『菅野満子の手紙』や『実感女性論』などを書いている(という話だ)。それらを今(46年後)まで引っ張っていられるというのは、ひとつにはこの恋が成就しなかったからなのではないかと思う。成就しなかった恋は、変化しないまま人の心の中に残る。だから、瑞々しいままの感情を、自在に引き出すことができるのだし、それを作品に投入することも可能なのではないかと。
そこから今度は彼女の妹からの手紙と、その「硝子戸の中」の本の持ち主であったK家の長男の去就についての話に繋がっていく。彼女らと会わなくなってだいぶ経ち、その間に主人公は作家として一人前となり、大学の教授も任じられているようだ。そんな彼にぽつりぽつりと手紙が来る。それは片想いの人の妹からで、彼女ら一家のあれからについて書かれているのだが、何と言っても一番力が入っているのが、この長兄のことなのだ。彼がK学院の教授となった旨、そして次の手紙には学部長になった旨が報告されているのだが、この二度目の手紙のすぐ後に、主人公は新聞でこの男のスキャンダルと失脚を知ることになる。返事を出しあぐねているときに届いた三通目の手紙。その封を開けると――。
えーと、「そこで振り出しに戻る」でいいですか(笑)。私小説風とは書いたものの、ここに書かれている作品や、年譜と見比べると小島自身のプロフィールにも合致しており、どこまでが現実でどこからが創作なのか、読んでいる方は混乱を来す。その混乱が楽しいのだが。何というか、非常に軽やかで、最後まで読んでびっくりした読者に向かって著者がぺろりと舌を出しているような、そんな錯覚に襲われる。
これもまた、紀行文を模した創作。一燈園という宗教団体の施設(wikipediaj:一燈園)に雑誌の取材で訪れた主人公(≒小島)の話。後日談も含まれており、そこでは森敦との電話での会話なども書かれている。孔子とか、新興宗教と小島、とか(アメリカ滞在中は、アーミッシュやクエーカーなどの中で暮らしたりもしている)の話と、一燈園での編集者やカメラマン、創始者の西田天香らとの会話が入れ違いに登場する。話は全然違っているようででもその思考は確実に連続しており、その揺らぎを楽しむものなのかなあ、なんて考えている。この中でもまた過去の作品への言及があり、このスタイルって奇妙で面白いなあ、と感じる。著者自身の作品解説になってたりもするんだよな。これはまだ読んでいる途中。どういう風に結ばれるのだろうか。
千石英世「小島信夫の小説と小説観」@ジュンク堂書店池袋本店4F喫茶室 そういうわけで、ちょうど小島信夫に夢中になっているときに開催されたこのトークセッション。最初見たときには軽くスルーしていたのに、先日見たときに「こ、これはーーー!」といきり立ち、早速申し込む始末。
内容はあとで書く。
ジュンク堂池袋本店にて。
(*)は、B本。済みません、入力に手間をかけさせてしまって……。『渋谷道』は、出たときには全然知らなかったけど、中を見たら「ほんの少し前の、殆ど現在の渋谷」が活写されていて、ブックファースト渋谷店の画像があるだけで即購入対象。ああ、何で新宿にはあんなにスペースがあるのに、渋谷にはないんだろうか。本当に、それが悲しい。
今のところどのくらい入手可能か確認してみたけど、amazonの売値とか、やけに高いのもあるなあ。これは図書館に頼って、後は地道に探した方がいいかも。そんなに急いで読みたいという訳でもないし。
『抱擁家族』の続編に当たる『
うるわしき日々 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』は、まだ何とか買える模様。後は『
各務原・名古屋・国立(小島 信夫)』かな? 『
残光(小島 信夫)』はもちろん買えるけど、かなり実験的な作品のようなので、ある程度他のを読んでから挑戦したい。
とぶつぶつやっていたら、TimeBookTownに小島作品が2つあるのに気が付いた。『女流』と初期短篇集の『小銃』。こちらは、「凧」「死ぬと云うことは偉大なことなので」「小銃」「雨の山」「吃音学院」「殉教」「アメリカン・スクール」「愛の完結」「黒い炎」の10作品が収録されていて(しかし、概要に収録作品くらい書いてて欲しいよなあ。分からないから、結局立ち読みファイルをダウンロードして目次を確認したのだった)、かなり『殉教/微笑』と重なってるけど、見逃すには微妙な感じ。300円台だし、買ってしまうかな。『女流』は既にダウンロード済み。
会社の最寄りの図書館には『別れる理由』は置いてなかった。別の分館にはあるみたいなので、読む段階が来ても入手できなかったら、取り寄せを頼んで借りて読んでみよう。
あ、あと『
水声通信 No.2 (2005年12月号) 特集 小島信夫を再読する』が小島信夫特集のようなので、こちらも入手することにしよう。
田中さんのライヴスケジュールはずっと気になってるんだけど結構タイミングが合わなかったり少し遠かったりでぐずぐずしてたら、渋谷でライヴ。しかも公園通りクラシックスって、ロケーションもばっちりじゃないですか。しかもここって、外からライヴカメラで中の様子が見られるので、そぐわなかったり大入り満員だったらそのままスルーなんてこともできたりする。が、仕事をしてたら到着が21時くらいになり、外のモニタには空のステージが映っている。でも、この状態ってことは休憩でまた始まるってことだよね、とドキドキしながら入ってみた。結局、わたしが入った時間は休憩に入ったばかりで、そこから30分、一体何をしよう。
雰囲気的に、文庫本を広げるのは違う気がする。でも、PHSは電波が入らなくて無理。考えあぐねて、地元の最寄り駅で以前に貰った若手県会議員のニュースレターを読むことにした(←凄くダメ)。お、漁港見学ツアーなんてやってるんだ、と思ったら先月のイベントだし。
で、演奏なんだけど、これが凄く良かった。第二部のみの参加だったのでそれほどの曲数を聴けたわけではないのだが、その分、一曲一曲に集中できた気がする。サックスの田中さんのチャーミングな様子はもちろんなのだけれど、わたしの席からよく見えるピアノの林さんの演奏が、とてもキュート。よく見ると、手がそれほど大きいわけではなく、ピアニストにしては珍しいかも、と思ったんだけど、それを感じさせないダイナミックな演奏で、すっかり魅了されてしまった。単独ライヴもやられてるそうなので、今度来てみよう。最後は、オリジナル曲も披露され、三人ともすごく気持ちが通じ合ってる様子が客席からも見えるので、そういうコラボを楽しむってのがやっぱりライヴの醍醐味か。パーカッションぽい民族楽器風の打楽器を担当されていたのだが、ああ、タブラ(wikipediaj:タブラ)っていうのか。中ほどに金属みたいな丸いものがあってそこをこすると奇妙な音が出るんだけど、それは
鉄粉を穀物の粉などと練りこんだ、スヤヒと呼ばれる黒いものが塗られている。これにより容易に倍音を発生できることがタブラの大きな特徴である。
というものだと分かった。最初はとても違和感があったんだけど、その違和感がいいリズムになっていて、いつの間にか自分の耳に馴染んでいる。あと、身体を使って音を出す遊び的なパフォーマンスも楽しかったなー。お互い競い合ってるし(笑)。
とても落ち着いた環境でこんな素敵な演奏を聴いてお酒を飲んでいい時間を過ごすことができて、すごく贅沢な気がした。
このユニットでは既に次のライヴも決まっているそうで今度は来年1月に西荻窪。うーむ、はまったついでに、行っちゃおうか。それにしても、田中さんの演奏を見ていて、ふいに「ラストラブ」のマサカズ(ニューヨークのジャズシーンでかつて活躍していたサックス奏者の役)を思い出した。ああもうねえ、マサカズには無理、これは。
田中さんとは、以前とある人の主催の小ぢんまりとした飲み会で一緒になったのだが、お話をしててすごく面白くて魅力的な人だなあ、とすっかり魅了されたのだった。彼の日記を読んでいると、「これがリア充ってヤツだね」とつい納得してしまうのだった。仕事も楽しそうで、腕が評価されてて、仕事で色んなところに行って打ち上げなどでうまい店(これが、そういうのを見つける鼻が利く人なんだなあ、と思うのだけれど、やけにうまそう)で飲み食いする。そういう大人にわたしもなりたい。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
やった! 笙野さんの新刊が出ていた。これは『だいにっほん、おんたこめいわく史』の第二弾。つまりは、この問題は終わりを迎えるどころか、ますます拡散してくだらなくなっていくのでありました、ということですよ。前回が白地だったけど、今度は黒地。もちろん装丁はミルキィ・イソベ。エンボス加工が施されてて、とてもきれい。『小説修業』は、どうしようか迷ってたんだけど。小島の後期の作品と保坂の作品のある面が似ているというのは多分確かで、彼ら二人が小説について話をするというのは大変に興味深い。ので、穴居宇購入。いつまで書店にあるか分からないからね。この店で小島信夫著作の商品は、5作。講談社文芸文庫の棚を見てみたら、わたしが『抱擁家族』を買ったときからさらにパワーアップしていて、複数冊棚に刺してあったりする。わたしの脳内が読まれてるみたい(笑)。でも、絶対に『墓碑銘』を読んだら初期短篇集にいくと思うし、そしたら後期短篇集も読まずにいられないはず。ひとりでもそういう人が出てくれると嬉しいんだけど。
灯台守の話(ジャネット ウィンターソン/Jeanette Winterson/岸本 佐知子)』岸本佐知子×小沼純一トークイベント@三省堂書店有楽町店
開始が20時過ぎという時間。不思議に思っていたが、購入時にお店の人の説明を聞いて納得した。お店の閉店後のイベントなんだ。
閉店時間を過ぎた頃にお店に戻り(それまでは他のところにいた)、様子を見るとどうも参加者は店内にいる模様。閉店の札が既に立っていたがその横をすり抜けて入場し、知り合いを見つける。今回の客は30人限定ということで、かなりゲストとも距離が近い。
時間ちょうどに登場したお二人の胸には、何かの丸いバッジが。よく見ると、『灯台守の話』の表紙を模したものだった。後で聞いたところ、白水社の営業の方が作られたとのこと。これは欲しいなあ、と見つめていたら、終了時にひとりひとりに配布されることになり、とても嬉しかった。
岸本さんと小沼さんの出会いは、小沼さんによる『フェルマータ』の書評がきっかけ。その後柴田元幸さんを介して三人でビールを飲んだのが、初めての出会いだったそう。お互いに会社勤めをしていたことがあるという共通項が。
岸本さんがこの作品を訳すきっかけを作ったのは、翻訳文学ブックカフェのホストなどでもお馴染みの新元良一氏。岸本さん自身は二冊彼女のを訳してたのだが、それからしばらく彼がジャネット・ウィンターソンと会ってきたのだそうで、そのときに岸本さん宛てにサインをしたためた"
Lighthousekeeping(Jeanette Winterson)"をプレゼントしてくれたのだった。メッセージに"Thank you for making sence of me.(わたしを分かるようにしてくれてありがとう(岸本訳))"「サイン入り本だというのにこんなにしちゃって……」と、本に書き込み癖のある岸本さんはおっしゃってたが、原著者と訳者の直筆が入った貴重な本になってると思うのですが。因みに書き込みは、本文の方は行間や周囲の空間に鉛筆で。本人曰く「モヤモヤとカビが生えたような」感じなのだそう。本文が始まるまでの白ページなどには、あとがきで使えそうなフレーズのメモ。「大抵、使わないで終わっちゃうんですけどね」。
基本的に、小さいメモ帳に書いてきた事柄を小沼さんが聞き出す形で進むのだが、途中に脱線に継ぐ脱線があり、かなり蛇行していたがそのいちいちが面白い。表紙はタツノオトシゴを模した島の地図。原書の方もそうで、この装幀は岸本さんの友人でもある、クラフト・エヴィング商會の手によるもの。周辺を縁取る文字は、昔の石板からとったらしい(さすがに意味までは知らない)。
※ここから、地の文は大体岸本さんによるもので、カギ括弧で囲った発言は小沼さんのものになります(大体)。文章を簡潔にするのに、ですます調やその他だいぶ省いてあります。
「タツノオトシゴ、どうですか」。干物にしたらいい出汁が取れそうだなあって。「タツノオトシゴって最初から最後まで可哀想な存在ですよね。最初っから干物っぽいし」。そういえば、タツノオトシゴってオスがお腹の中に卵を入れてるんですよね。「これってどうです、ジェンダー的に」。大変よろしいと思います。人間も見習えー。……なんて具合に、ちょっととぼけた感じも漂う。岸本さんは、この小説の最後にタツノオトシゴが出てくる場面があるのだが、そこで泣いてしまったらしい。
ところで最近、灯台、きてると思うんですよ。P・D・ジェイムズも『
灯台 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)(P.D.ジェイムズ/青木 久惠)』という作品を出しているし、「
灯台守の恋 [DVD]」という映画もあったし。わたし、灯台が好きなんですよ。灯台フェチなんです。「きっかけは?」。昔……20年くらい前かなあ、「
ディーバ -ニューマスター版- [DVD](ジャン=ジャック・ベネックス)」っていう映画があって……あ、皆さんまだ生まれてませんよ(それはリップサービスしすぎだ(笑))。主人公の少年がある重要な秘密を握ってしまって、悪者に追われてある人に助けて貰うのだが、その人は沢山アジトを持っていた。そのひとつが、うち捨てられた灯台。しばらくこの灯台に住むシーンがあるのだけれど、もうそれが羨ましくて羨ましくて。円いんですよ、なんか、中が。とにかくそのシーンにぐっと来て「灯台に住みたーい」って。前にエッセイに書いたことがあるんですけど、家の近くに塔があって……と、『気になるタイプ』の例の消防署の訓練塔の話を。もうだから、このタイトル"Lighthousekeeping"というタイトルを見ただけで、もう。
"Lighthousekeeping"について。「これ、一語でしょ」「そうなんですよ、その意図は不明なんですけど」。この中の"Light"で困ったのが、ホントの「光」という意味のときもあるし、これで「灯台」を示す場合もある。また灯台の中の「光源部」のときもあって、どれを表すかかなり困った。「ルビとか付けようと思わなかったの?」最初付けたんですけど、最終的に取ったんですよ。なんかルビを付けるって「ヘタレだな」と思っちゃって。自己満足のことが多いんですよ。効いてないことが多い。いろいろ悩んでやるんだけど、最終的に意味がない。意味が伝わらなとしたら全てわたしの責任です。済みません。
「あとがきで、「ここだけずっと訳していたい」と書いているところがあったでしょう。その辺りについては?」翻訳は、苦しさ9割。でも、後の1割がたまらない。この作品は灯台フェチのために灯台のシーンを書いているときが、楽しくて楽しくてしょうがなかった。もう何もかもが小さくて、ベッドも引き出しくらいしか無い、とかね。「ベッドが大きくなってったりするんだよね」。そう。女の子が主人公なんだけど、彼女の成長に合わせてベッドの足が4本から6本、6本から8本に増えていく。そういった灯台の部分が楽しかったのと、あと、作家との相性というのがあると思う。すごく好きなリズムで、結局はそこが合う合わないだろうけれど、すごく楽しめた。「岸本さんの翻訳は日本語のリズムがいいですよね。最初の部分は作品のユーモアを感じる。本当(話の内容)は違うのだけれど」そこは彼女(ジャネット)自身のユーモア。「語り口もいろいろ変わりますよね」。これはピューという目の見えない灯台守のもの。ていうか、盲目の灯台守ってダメじゃないかってさっき気が付いた(え、今頃(笑)?)。200歳くらいというおじいさんのピューが語る部分と、地の部分……ここはちょっと100年前のメロドラマみたい。わたしは語りの部分が結構好きで、例えば泉鏡花などもその辺のおばあさんを捕まえて「実はな……」とか。おじいさんおばあさんの砕けた喋りと、実際起きたことのギャップが面白い。ずっと前に『ヴァギナ・モノローグ』というのを訳したことがあったのだけれど、何でこれをやろうと思ったかというと、最初の方におばあさんの語りがあって、もうそれを読んだ瞬間、これをやりたい、と。そのおばあさんの語りを訳すためにやったようなもの。
「すごく語りってものを考えさせてくれる。物語の面白いんだな、とかこれをずっと聴いていたい、とか、自分がこれを物語るとしたらこうかな、とか、色んな位相、フェーズを考えさせてくれるのもこの小説の面白さだと思う」。あとがきにも書いたけどこの人はちょっと変わった生い立ちの持ち主で、そのまま生きていたら多分発狂するか死んでいたような人で、現実を物語に変えて受けいれることで乗り切ってきたというのは、自分でも言ってきたし書かれているものからも分かる。割とそのメッセージが今回結構ストレートに出ているかも知れない。「それも決して嫌みではないし独善的に語るのではなく、人の話もちゃんと聞ける。ものを語り、聴くこと、それが文学のすごく重要なところだと思うのだけれど、それがこの作品にはとても多く描かれている。能動的な側面と受動的な側面があるな、と。そういう意味では、例えば学生に読ませてそういうことを考えて欲しいなと思った。それと語りと関わるのだけれど、聖書とかスティーヴンソン(『宝島』の作者)とか色んなリファレンスがたくさんある。主人公は「教育もなくて」とかいうのだけれど、そういうのがうまく織り込まれていて(『トリスタンとイゾルデ』とかも)、そういうのに気付いたり、再読してみようかと思わせるものがある」。この中にも出てくるけど物語というのはそれだけでぽこっと生まれる訳ではなく、親や子がある。お話は永遠に終わらない。ひとつのことを語れば色んなものが出てくる感じというのは面白い。「この一冊の周囲にスティーヴンソンとか『ジキル博士とハイド氏』とか『トリスタンとイゾルデ』とかを並べてみるのもいいかも知れない。
「(そう言ったリファレンスの)元本に当たるとかします?」いや、無教養なんで(「嘘つき」とツッコミ)、全部「大体こんな話?」って知っててでも間違ってたりするんで……。「でも、それは誰だって間違えてたり勘違いしてることありますよ」。でも、読んでて間違えるのと読んでなくて間違えるのと、どっちがいいんでしょう。「どっちでしょうねえ。それってあんまり……どうなんだろう」。『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデも、ふたつ出てくるじゃないですか。しかもあれって作者がいないんですよね。それを後の人が「こんな感じ?」と纏めたのがいくつかあってわたしが読んだのは岩波文庫だった*1んですけど。それではトリスタンが殺したのはイゾルデの「最愛のおじさん」なのだけれど、この人が読んだのは「恋人」を殺したバージョンで。「オレもちょっと「へぇ」って思ったんだけど」。オペラではどっちなんです?「オペラ苦手なんです。少し前に「ユリイカ」の北欧神話のテーマの号の、「ワーグナーと北欧神話」という原稿依頼があった。「でもオレ、ワーグナーも北欧神話も知らない」って断ったんだけど断り切れなくて初めてちゃんとワーグナー作品を見たら、初めて「あ、こんな話だったんだ」って分かった(笑)。ギトギトした感じがすごい苦手で見なかったり見ても寝てたりしたんだけど、今回やっと分かって、ちょっと勉強になった(笑)。そんなものなんですよ。専門家は何版、何版って詳しいんでしょうけど」。
小沼さんは、ほっといたら(というのも何ですが)何が得意なんですか? 「すごい難しい質問。……わかんない」。実はここに来るまでにジャワの銅鑼についての一大蘊蓄を聞いてすごく面白かったので、それをここで披露すればいいと思ったんだけど。「ここでは皆さん、銅鑼の話を聴きに来た訳じゃないから。……少し話はずれるけど(と、今度出る本の説明)。変わった作曲家の話で。1920〜30年代にバリ島に行ったカナダ人の話。レコードでガムラン音楽を聴いてバリ島に行こう、と思っちゃうような人。銅鑼が結構重要なテーマで、「叩く」ことがピアノと共通していて、その辺をずらずらっと書いたよ、と」。それじゃあ蘊蓄部分がないので(面白いところが抜けている)。「とは言っても。……日本人ってあまり銅鑼と関係ない文化だけど、中国から東南アジアまではずっと銅鑼の文化圏。で、銅鑼のかっこうがちょっと地域によって違う。扁平なのと、真ん中がポコッと出てるようなのと。東南アジアでは富や権力の象徴だったりする、という話。『魅せられた身体』。ロマン・ロランの『魅せられたる魂』という小説があって、魂じゃなくて身体だよ、ということで書いた。今月20日頃に青土社から出ます」。高尚すぎてみんなもとネタは分からないかも。
「この小説に出てく人の名前って凝ってますよね。バベルとジョサイアが親子。サムスンという……やかんだっけ?があって」。あれは紅茶。ああ、そういえばあれも聖書ですよね。「それにミス・ピンチてのが出てくるでしょ」ディケンズに出てきそうですね。「主人公のシルヴァーと灯台守のピューってのはスティーブンソンなんでしょうけれど。スティーブンソンという人は本当に出てきちゃうし、ダーウィンも出てますよね。本人(主人公)は二十世紀の人だけど、出てくる人は時間軸が長い」。この人歴史が大好きみたいで、この人の『ヴェネツィア幻視行』は本物のナポレオンもすごく嫌な奴として出てくる。現在と過去をぐっちゃぐちゃにして自分の好きに作り直している。この人は多分リアリティをストーリーに変えていかないと自分のものにならない哲学の持ち主みたいで、"History"を"Story"に変えて初めて信じられるらしい。
どれかのあとがきで書いたけれど。この人は孤児院で生まれて養父母に引き取られたけれど、特にそのお母さんが狂信的なカルト宗教の信者で家の中に聖書しか本がないようなところで、学校にも行かせないで聖書だけをたたき込まれた。それで8歳くらいで説教師になっちゃって、聖書と教会のコミュニティしか知らないで育ったのに、ある時同性愛が発覚して放り出されて。今まで信じていた教会とか宗教ががらっと180度変わって、今まで宣教師としてもてはやしていたのに、彼女を押さえつけて悪魔払いとかをしちゃう。それで与えられたセオリーというものを徹底的に疑うことが骨身にしみているらしい。歴史だって、書いてあるだけで誰も見てない。そのまま信じてたまるか、というところがあるのだと思う。スティーブンソンまで行くと歴史ってものでも無いと思うけど。「ある意味文字とか言葉というものを通して自分の中で身体化していくという感じなんだろう」。すごく、"身体で書いてる"という感じのする人。だからリズムが合わなければ全然訳せない。読むのも辛いかも。
「そういうのを翻訳するときにどういう風に日本語になっていくの? 生理的な感覚とか」。んー、分からない。読んでて「面白いな」と分かっても自分の中で日本語に変換されない感じなのもあるし、そんなに難しくないのに全然読めないということもあるし。自分の能力不足もあるけど、何か拒否されている感じ。「英語で読んでいるときに同時にいつの間にか日本語も出てくるような感じ?」。そういうのもあるけど、全部ではない。全部だったらすごく楽だけれど(そのまま原稿になる)。ところどころわっ、わっと出てくるところがある。読んでてわっわっの回数が多いほど多分気が合う。
「きっかけはすごく不思議で。大学の2年生のときに原本が出て新宿のフランス図書というところで見つけた。すごく本は薄くて活字が大きいしでも高いし、でも買って。そのときフランス語を習っていた白井健三郎先生(wikipediaj:白井健三郎)に「これ、読んだんだけど」と言ったら「これ、面白いから来年授業でやるよ」って言う。内容はすごくいやらしい話なんだけど白井先生が翌年授業で使ったときに「君、あれを教えてくれたのはいいんだけどさ。女の子ばっかりの授業でできないよ」と言う。自分で読んだんじゃないのって(笑)。その後誰かが訳すだろうと思っていたし会社に入っちゃったから離れてたんだけど、30歳になっても誰もやらなくて、じゃあやってみようかと思ったらまだ版権が残っていた。そこで着手したんだけどそりゃあもう大変だった。止めたいって思った。だからそれ以降殆ど翻訳はやってない。力尽きた。大学時代豊崎光一先生(wikipediaj:豊崎光一)にも習ってたんだけど、会社員になってから「翻訳やりたい」と言ったら「翻訳なんて止めなさい」と言われた。後で考えるとこの人はぼくに才能がないのが分かってたんだなと思うんだけど(「親切心だったのでは。儲からないよー、とか」(岸本))。編集の人も一語一語訳文のコメントを疑問符で振ってくる。もう殆ど語学の授業だった。いい勉強にはなったけど逆に(笑)」。あれは日本語としてとても特殊な加工をしている感じだったけど、原文がそう? 「原文が結構そう。非常に性的な場面があるのだけれど。例えば男性器とか。当然男性形なんだけどそれを「もの」と言い換えると女性形でそれを代名詞で受けると女性形の代名詞になる。そういう困ったことが結構あって。わざと彼女はそう書いている。日本語にはしにくい」。わたしがフランス語の翻訳者じゃなくてよかったと思うのは、その男性形女性形。そういう「遊び」がある訳ですね。「そうすると性的関係もある意味とってもねじれた関係になる」。ってのは日本語で表現するのは無理? 「んー、無理。そうするとルビ振っちゃったりする」。まあそれは仕方ないよね。「でもやっぱりぼくがルビを振ろうとするとその編集の方が取っちゃおう、という方向に行った。……段々思いだしてイヤーな気分になってきた。廊下で座ってる気分」。トラウマ。人が翻訳で苦しんでるのを見るのは結構楽しいなあ、なんて。「今回の本でも英文が結構出てくるんで、そこは自分でやらないで大学の英文の子にやって貰うことにして良かった」
「この作者は1959年で同世代」。同じ学年ですね。「同じ学年(笑)。ぼくもだけど。最初、すごい古い話かと思ったけど、「月に行く」とか出てくる。読んでいくうちに自分たちが生きてきた時代のイギリスのどっかの話って分かると、遠近感が全然変わってくる」。この人あまり現代の風物を出してこない。「むしろそういうものをわざと出してこないようにしてる?」。そうですね。でも結構あちら(イギリス)の書評を見てると、作品の中に「スターバックス」という単語が出てきてすごく衝撃を受けたというのが結構あった。今回、いくつか商品名が出てくる。「最初は何もない家と寂れた町だし、遊園地くらいしか話に出てこない。その次行ったギリシャもそうだし、何もないところばかり行っている。逆に何もないからそこにイマジネーションが働いて物語が召還される感じは感じた」。この人は生まれも何もないところだったから、その方が落ち着くのかも(笑)。この人、小説を書くときもわざと何もないところに行くらしくて、序文などにルース・レンデルに宛てて「わたしに書く場所を与えてくれてありがとう」って書いてある("Lighthousekeeping"は無かったらしい)。ホントに書く場所を借りてたらしい。お母さん代わり。
「人ってものがあるとものを考えない。周りに本があるとつい手に取ってしまってしまう。何もない状態ってものを書くのには必要なんだろうなと思う」。小沼さんが書くときは? 「いや、わたしは創作じゃないから」。でも、音楽について書くことが多いから、やっぱり音楽を聴く時間は長いの? 「いや、殆ど聴かない。必要なものを必要な時間聴くだけ。できるだけ聴かない時間を多くしている。本を読むとか音を聴くとかって、自分の思考では無いので。だから一番いいのは電車乗ってるときとか」。そうですね、脳が軽いアイドリング状態で。わたしは音があるとダメだけれど、自分は考えてないから、空っぽの頭の中に入ってきて気が付いたらいっぱいになってる感じ。本当はいっぱい入れなきゃダメなんだけれど眠かったり疲れてたりしてぼんやりしている時間がとても多い。せっぱ詰まっていればいるほどそうで、円グラフを書くと何だか分からない時間がすごく多い。実はそこ(白水社で作ったリーフレット)に脳内メーカーを晒されてしまったんだけど、本当はそこはプロフィール写真を送ってくるはずが来ないから仮に入れていたらしい。「「金」ばっかりですね」。わたしそんなお金のことばっかり考えてないんだけど。若島正さんは真ん中が「変」で周りが全部「嘘」。「それはすごいですね」。色んな人のをやった。わたしの友達で全部「悪」の人がいたんだけど、つぎに会ったときに目を見れなかった。「この人の中はみんな「悪」なんだわ」って。わたし、何でも信じちゃうんですよ。
UFOとか霊とか心霊写真とか全部信じてしまう。五年くらい前にわたしの青春時代は終わったんだけど(「随分最近ですね」「そうですね。それまで青春だったというのもすごいですけど」)、ミステリーサークルは絶対宇宙人の仕業だと思っていたのに、イギリス人の人たちがあれは自分たちの仕業だってカミングアウトしちゃった。もう、がっかり。青春が終わった。あ、でもまだUFOとかあるし。でもホントに止めて欲しいなと思った。だってレポーターの人が「この模様作ってください」って言ったら「あいよっ」ってホントに作っちゃった、きれいに。はぁ〜〜〜って。知らなかったら良かったのに。「ミステリーサークル」とかそういうがあると、必ず見ちゃう、正座して。わたしたちの世代って矢追純一全盛の時代じゃないですか。小沼さんは絶対に見てないと思うけど。「見てない(笑)」。馬鹿にしてるでしょ、そういうの。「馬鹿にしてる訳じゃないけど、単純に見ない。情報として入ってこない」。わたしは毎週UFOとかネッシーとか全部見て、至福のときだったけど、最近そういう時代が終わっちゃって。「別にUFOが無いとかネッシーがないとか思ってはないけど。でも、ゴジラとか大好き。でも違うか」。あれはねえ。でも、大好きですよ。ゴジラとかうちらの世代全盛期じゃないですか。「あ、でも、21世紀は無いと思ってた。余生だよね、これは」。そう、儲けものというか。「もうとっとと終わらないかなと思ってるもん」。じゃあ、ノストラダムスとか信じてたんだ。「いや、あれは信じてないけど、21世紀は無いと思っていた」。ええーホントかな。わたし豊崎由美さんとも大体同年齢だけど、飾り気抜きに自分に影響を与えた10冊を選んだら、どっちにも『ノストラダムスの大予言』が入っていた。やっぱり、これは人生を変えた一冊だ、ということで。しかも何とあれは絶版じゃなくて今500刷くらい。「わたし、カトリックの学校にいたから「異端だな」と思ったんだよね」。わたしもプロテスタントの学校にいてやっぱり「異端だな」って思いましたけど。「信じてた訳じゃないんだけど「これはいかんのかも知れない」と思った」。変な話に行ってしまった。
「海外で本を買うと、書き込みや何かが入っている本が手に入ってすごく面白い。どこに線を引っ張ってるかとか、ベルギーから来たやつは、教会でくれるペラ紙とかキャラメルの包み紙とかたくさん入っていて、すごく面白かった。持っている人の歴史があったり、本の「献辞」が入っていたり、すごく楽しい」。わたしはすぐにはキーボードを打てないので、まずは本に書き込みをする。書かないと気が済まない。「その方が本に対する愛着があるでしょ?」そうですね。白いままという人っているのかな。「全部コピーをとってそちらに書き込むとか」。そういうのも愛着の一種だろうけど、どうもわたしは書き込んで陵辱しないと自分のものにならない。「前に入手した韓国の歌の話なんだけど、いちいち間違いに線を引っ張って直したあとがあった。年代とか名前が間違ってるとか。どう考えても校閲の人がそのまま出しちゃったんじゃないかと。いいものを手にしたと思った」。宝物ですね。わたしは「蚊がつぶれてた」くらいの経験しかない。「いや、お金がなかったからね」。
君は永遠にそいつらより若い(津村 記久子)』
わたしたちに許された特別な時間の終わり(岡田 利規)』(二編あるうちのニート夫婦を描いたのが好き)
名残り火 (てのひらの闇 (2))(藤原 伊織)』。ええと、絶筆? 遺作? この人のは全部同じなんだけどそれがいい。しょうもないオヤジが肩肘張って。彼が読むと母親と自分のどっちが先に読むんだけどお互い「ああいうのはいいよね」と言い合っている。要するに「絶対にあり得ない」ようなところが好き。(「小沼さんがハードボイルドがお好きって意外ですね」(岸本))。そうですか。でもチャンドラーとかも好きだから村上春樹訳のも読みましたけど良かったですよ。でもあれを読むと村上春樹って全部ここにあるんだな、って思っちゃいますけどね。(「そうですか、原点晒しちゃった、みたいな」(岸本))。あれくれい有名になるといいんだな、という気がしますね。あとはちょっと思い出せないなあ。あああと『灯台守の話』とか(笑)。あと、ポーを最近読み返したんですよ、必要があって。光文社の奴とちくまのやつと両方読みましたけど、昔ポーは難しくてダメだったんですよ、中学生のとき四弾ですけど(「そりゃ早すぎですよ」(岸本))。でも、今改めて読むとやっぱり良くできてるなって。(「それは訳が変わったせいですか、自分が変わったせいですか」(岸本))。難しかったですね。創元推理文庫とか、やっぱり難しいですよね。訳者が結構年取った人でしょう。後ろの方だと福永武彦とかあるんですけど。ハードボイルドも意外だったけどUFOキャッチャーが趣味、というのもかなりの衝撃だったんですよ。「でも結構40や50過ぎたおじさんとかは結構好きですよ」。太鼓叩く人もいるじゃないですか。「ああ、あれは……あれはまあいいか。モグラたたきとかありますよね」。ええ、あれわたし好きなんですよ。「あれ、かわいそうじゃないですか」。え、お、乙女? 「そう言われますね」。それじゃ可哀想で叩けないんですか。「叩いたことは無いですよ。あ、そういえばここ(『灯台守の話』)には犬が出てきますよね。犬の使い方がすごくいいですよね」。急に話が戻ってきた(笑)。本当これは犬の使い方が憎ったらしいほど良くて、これの前に書いた『永遠を背負う男』なんかも、もう犬のシーンが号泣ですよ。この本も号泣なんですよね。彼女は犬が好きみたいですよね。「何種類か出てくるんですよね、二種類かな」。昔の犬と……。「あのタツノオトシゴと関わっちゃう場面の犬もいるじゃないですか」。ああそうですね。あの犬も健気ですね。あの犬の名がトリスタンですよね。犬にすごい名前をつけたもんだな。「ということでこの小説は「真実の愛を求めて」と書いてありますけど、それがやっぱり物語なんですね」。そうですね、そう言っちゃうとクサいですけどね。かなりそのところはストレートに書いてますよね。「物語ること、とかさっきから言いましたけど、それが聴くこととか、かな、と思いますけどね」
ここで話がきれいに終わり、サイン会へと進む。1時間ちょっとのトークだったのだけれど、こうやって文字にするとすごく濃いな。少しでも伝わるといいんですが。基本的にわたしの聞き書きによるもので内容も端折ったりしているところがあるので、事実誤認やらなにやらあるかも知れません。目に余るところがあれば是非ご指摘くださいませ。
*1 岸本さんのお父さまが岩波文庫ファンだそうなので、その蔵書の一冊だろうか
灯台守の話(ジャネット ウィンターソン/Jeanette Winterson/岸本 佐知子)』昨晩、有楽町に向かう電車の中で、冒頭だけ読んで一気に引き込まれる。この、語り口と物語の強さなんだよなあ、欲しかったのは。読み進めるにつれ、ああ、わたしはやっぱりこの物語を待っていたんだという思いを強くする。わたしの手に届けてくれて、ありがとう。
訳者の岸本さんに、「バンズ・ラビリンス」について聞かれたのだが、トークの内容を思い出し「この主人公の女の子もまた、過酷な現実を物語として再構築することで何とかやり過ごしてきたんだと思います」と答えてみた。
この装丁も素晴らしく、クラフト・エヴィング商會だったことをページを繰って知る。タツノオトシゴのような半島の 地図にトレーシングペーパーをかけたような趣のある絵柄。その周囲に縁取られた枠とそこに記される文字。上質の物語を嫌でも期待させる見事な仕事でした。こんな素敵な装丁にしてもらえるなんて、この物語も幸せもものだ。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
灯台守の話(ジャネット ウィンターソン/Jeanette Winterson/岸本 佐知子)』文章が、しみわたってくる。魂の死と再生。流浪するなかでのゆるぎない存在としての灯台。最後の数章は、何度も何度も読み直してしまった。
「あなた」の存在について。ここはどうしてああなったか、訳者に訊いてみたいかも。地の分では多分どちらともとれる感じなので。
落ち着いたら書き直します。
月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』前期短篇集から一気に飛んで後期短篇集。つーか、飛びすぎ! いや、わたし自身飛びすぎだけど、小島信夫自身が更に。
ここに収められているのは、私小説風随筆風の作品。でも本人が小説と言うからには小説なのだと思うし、そのういった体裁は保っていると思う。以前に書いた作品への言及、というか、なにやらエピソードを長々と語り「という辺りは「××」で書いているが」と、自作品を振り返るの図。自作品参照に自作品への参照を繰り返す形で、まさにセルフ・リファレンス・エンジンですよ。ちょっと、せめて中期作品を読んでからの挑戦の方が良かったような気がする。
これで「がっこう」と読む。多分、仏教用語? ある雑誌(って、「婦人生活」とちゃんと名前が出てるんだけど)の取材で行った、京都の一燈園という新興宗教団体の施設でのできごと。ここで集団生活をしつつ修行するのが常態であるようで、それを少し体験させて貰うのだ。この宗教を起こした西田天香の話も含まれており、実際に紀行文めいたところもいくらか見える。しかし、それはあくまでも装置であり、それ以外のところに主眼があったように思われる。たとえば、取材のコーディネイトをしているらしい婦人記者。彼女はなかなかお転婆な性格のようで、なにか明け透けなことを言い、ついでにおでこを叩いてみせたりする。彼女の突撃取材でいろいろ分かったことがあったようにも思う。また、同行のカメラマン。彼は夜ふたりで酒を飲んでいるときに戦争中の話をするのだが、その体験を聞きながら
当時は、誰も彼も小説家だったといってよかったかもしれない。みんな今でいうヒューマン・ドキュメントを胸にしまっていて、うまい相手をひそかに探していた。(p.47)
と述べている。当時というのは言うまでもなく戦時のことだろうが、当時は非常時であったため、誰もが自ら他人に語れる経験をひとつやふたつ持っていた、ということだろう。人と違った体験をしていると思うからこそ誰かに語りたくなるし、何度も語っていればそれだけうまくもなる。そういうことを小島は言っているのではないのか。
そして、そんな話を小島は、「釣堀池」という短篇に使ったと書いている。
面白いのが、小島はこういったことを記憶が曖昧なままのときは、曖昧なまま語ることだ。このカメラマンの話も、この場面が切り替わってすぐに
いま書いたこの話は、大分そのときの話とは違っているような気もする。(p.49)
などと書いている。こういった姿勢は他にも散見されて、創作という場でこのような「生で見せる」ようなことをするのはちょっと興味深い。だって、創作なのだから後で調べたりつじつま合わせをしたりして、うまく話の整合をとればいいのだ。それをこのまま見せることを、最初は「大家の開き直り」ととっていたのだけれど、どうもこれは開き直りというものとは別に、創作の姿勢として敢えてとっているような気がしてきたのだ。果たしてこの感じ方が合っているかどうかは分からないけれど。ただ、初期短篇集を読まないでいきなりここから入ったら、わたしは多分、投げ出していただろう。「ああ、身辺のことを明け透けに書く私小説作家か」と。おそらく、そう見られている部分もあったのではないだろうか。しかし、初期短篇集のあの姿を見てしまったからには、これが偶然の産物とはとても思えないのだ。どんな意図をもってこのような形態をとっているのか、いまひとつつかめないでいる。
この短篇の結びは、天香さんが毎年正月の元旦に行う儀式を元にして書いた「十字街頭」と、それを読んだというかつての婦人記者の手紙なのだが、そこにはこの作品を読んで、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老を思い出したと書かれている。何かの事実や談話を元に書いた作品が、また他の作品を想起させる。そんな「運動」のようなものを、著者は書きたかったのだろうか。最後に引用された山崎方代(ほうだい)の
声をあげて泣いてみたいね夕顔の白い白い花が咲いてる
という歌は、おそらく天香の談話にあった北海道で失敗して帰ってきた話から想起したのだろうと思われる。
それにしても。著者の後期の作品は、実在の人との会話や逸話、手紙などが頻繁に参照される。それらはあまりにも明け透けで、書かれた本人たちはどう了解していたのだろうかと心配になる。なんか、この後の著者の無頓着さを見ても、各自に了解をとったようには思えないんだよなあ。
これは、おそらく著者の弟と生涯について書いたものだろうと思われる。入院した弟夫婦への見舞いと、それからだいぶ時間が経って、弟の十三回忌に親戚があつまったときの話が器用に繋がっている。そしてそれらは、電車の中で出会ったという不思議なふたりの男の話から引き出されるのだ。
弟はどういう生い立ちだったかは分からないのだが、信夫とは違ってだいぶ博打打ちのような人生を歩んできている。常に綱渡りで、何かあれば兄が尻ぬぐい(とはいっても、兄である信夫もまた大して頼りになるような存在には思えない)。彼は自分がしっかりやっていることを伝えようとはするのだけれど(このときのことは「自慢話」という短篇に書かれているらしい)、この夫婦ともまともに思えない描写で、こんなに明け透けに書いていいのかとこちらが心配になってくる。でも、何故かひどい目に遭っていても、全然暗くないんだよな、みんな。だって、この弟なんて、伊勢湾台風で被害を受けて仮設住宅に入ったはいいが、その前後に建て増しをして、勝手に事務所を作ってしまったりしている。そんな中にめまぐるしく書かれているので意味が取れず何度も読み返したが、まあ、著者の描写から想像される、ちょっと可哀想な最期を遂げたことまで書かれている。ああ、この人が「分かりにくく」書いているところって、それなりに意味があるのかな、そう考えると。時々、自分中心に考えているとしか思えないような身勝手な描写が出てくるのだ。
これもまた、面白いことに手紙で幕を閉じている。弟の長女のお礼の手紙なのだが、その中に書かれているのは、長女の言い訳。言い訳をしながら言い訳をしている。彼女が、何に固執しているのかも、哀しいほどに伝わってくる。
著者の伝記や年譜を作成していた、平光善久という人が著者に今までの作品と人生を引きつつ細かいところの裏をとるという旧盆の一夜を描いている――と思いきや、
以上は、東京の家での今年(昭和五十八年)秋の残暑きびしいある日の午後の、私の白昼夢である。(p.149)
っておい(笑)! 彼の早くになくした先妻の話が大半を占め、その後「白昼夢」から醒めたところでその墓参りの話をしているから、何か気に掛けることがおそらくあったということなのだろう。しかも、後妻の方は著者の子ども(といっても成人している)との仲がうまくいってないことなども語られていて、ホントにここまで書いていいのだろうかと心配になる。この平光との「白昼夢」の中でも、今までの作品で披露した先妻の手紙などについて
「彼女は、手紙が公開されるということを知らなかったと思います。ぼくは、四十一年前のあのときも、そのことに気づかなかったのはどうしたことだろう」(p.144)
なんてこの期に及んで言っちゃう訳ですよ! おまけにここでは実姉の婚外子のことにまで言及していて、なんかもう、こんな人が近くにいたら、わたしは付き合いたくないですよ。とするとやっぱり今までのも創作の部分はもちろんあるだろうけれど、著者の心の中ではさしたる葛藤はなくすんなり人生のエピソードや貰った手紙が出てきたんだなあ、と感じられることでありますよ。
先日のトークイベントで千石先生は「小説で名前を出された人が必ずしも喜んでいる訳ではなかった」みたいなことをおっしゃっていたけど、今だったら裁判沙汰になってもおかしくないことがごろごろありそうな……。
ということで、「落下の舞」を読んでいるところ。
月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』ん〜、何となくだけれど、書いていくことで何かが浮かび上がってくることを、著者は期待しているのだろうかと思ったり。無目的なようで、そして思い出すがままに意識は移っていき、また別の向きへと突然に飛んでいく。それを、読者は慌てて追いかけていく感じ。
岐阜の、地元での知人たちとの交流。それぞれに老いが見られ、特に妻をつい先日に亡くし傷心の米さ(高田米吉)の話が後半中心になる。訪問者たちに顔を向けぬ、彼なりの矜持。顔を向けぬために、わざわざ主人公が彼の発言を文章にしたものについて文句をつけてきたりする。
途中、テレビ番組で見たという女優の長岡輝子が盛岡の小学校で授業をする風景を思い出している。ここで長岡は宮沢賢治の詩を読み上げ、方言で発音することの特異性と貴重さを力説するのだが、実際その番組を見聞きしていないわたしにも、その魅力が伝わってくる。この記憶と何故この文章が繋がるかというと、そこには「方言」の持つ風味のようなものが共通しているということだと思う。地元に帰り、みんなが方言で話をする。殆ど訛りが消えている自分でさえも、わざと仲間内で方言を使ってみたりする。それは、演説がうまかったという森田草平の甥、森田芳流の思い出にも繋がってもいる。これらを思い出すのは、米さからの五年後の葉書。ようやっと妻を亡くした痛みも癒え、良き思い出となっている模様。
タイトルが何かを喚起する力があり、読むのを楽しみにしていた作品。しかし、ブルーノ・タウトの椅子はひとつも出てこない。ブルーノ・タウトの椅子を巡る逸話と、その椅子を展示するという新潟の椅子の美術館に行く途中の会話とで成り立っている。その椅子と美術館には実に多くの人たちが関わっていることはその会話の中で嫌と言うほど分かるのだが(あまりに多くて覚えきれない)、全部ローマ字のイニシャルトークなので余計に混乱する。
ここで出てくるブルーノ・タウト(設計)の椅子は
タウト設計の椅子は軽くてデリケートなものだ。叩いても壊れることのないような頑丈な従来の椅子というもののイメージを一変することを目的にした。腕木は細くて継ぎ足したものであってはならない。背もたれの部分には、ある仕掛がしてあって、そこのところを持って持ち上げる。ほんとうに小指で充分だ。尻を乗せる部分には、竹皮細工の座布団をのせるようになっている。軽くて、むれないためであろう。(p.197)
と綴る。実際にその写真は見られるかと「椅子の美術館」や「ブルーノ・タウトの椅子」で検索したりしてみるが、はかばかしい収穫は得られない。そしてまた、この小説の中でも、庭園の中にあるという椅子の美術館にたどり着かんとするその直前に、景色は雲散霧消する。
「天寿園」と額のかかった優しくデリケートな、日本式庭園の門をくぐると、まだ体をなさない日本庭園の左右に、平屋がいく棟も見えた。さて〈椅子の美術館〉はそのうちのどれであろうか。もちろん、遠くから建物の中の椅子の姿など見えるはずがない。見るためには、その中に入らねばなるまい。でも入って行かなくてもいいような気がする。タウトは幻だからである。(p.203)
なななななにーーー!? 折角蛇行しつつもこの「椅子の美術館」なるものに向かってゆるゆると進んできたはずのこの小説は、ここで一気に台無しになる。しかもその理由が
タウト自身も自分の日本は幻だと思っていたのであろう。
つーことで、それ以上は語られない。そしてまさに、この後から最期の一行までの短い空間の中で「椅子の美術館」なんぞどーでもいーことになってしまうのだ。
するとUは誰に語りかけるともなくいった。「さすが中国庭園の方はみごたえがありそうだ。ほかはともかくとして、これを見るためにも、人は集まるでしょう」(p.204)
今までのブルーノブルーノブルーノ椅子椅子椅子は、全て雲散霧消してしまった。しかも、今入って行っている筈の日本庭園ではなく、同じ敷地内にある中国庭園のことを(見たかどうかは分からないが)褒めているのである。なんということでしょう(「劇的ビフォーアフター」のナレーション風)。
小島文学は「はぐらかし」が特徴なのだが、今まで読んできた後期の短篇全てがそれに尽きるような気がしてきた。
因みに天寿園とは、新潟市内にあるテーマパークのようなものであり、日本庭園と中国庭園が隣接されているらしい。まあ確かに、ウェブを検索しても日本庭園を言及するよりもずっと中国庭園の話題が多い有様のようでもある。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
ここ数日書店に寄ってなかったから、ここで力尽きた。

今日、豊崎さんの書評講座で作った書評本を先行販売してもらった。見ると、思っていた以上に素晴しいでき。それぞれの書評も荘だし、本のデザインも素敵。このデザインは元講座生のたんなおちゃんが全面的に担当したそうで、その凄腕につい舌を巻いてしまった。
これで500円は絶対お得。明日の文学フリマに行く人は、買い求めるといいよ。贔屓目抜いてもいい本だと思う。あ、あと、岸本佐知子インタビュー(インタビュアーはもちろん豊崎由美さん)もあるので、色んな人が満足するはず。
明日会場にいけない人向けにも通販を計画しているそうなので、気になった人はぜひぜひ。
秋葉原で今年も行われた文学フリマに行ってきた。朝一で行くとか言っていながら、結局昼過ぎにのこのこ出かけたら、会場に入ってすぐ、誰かに声をかけられた。声の主は、超短編でお馴染み(?)の松本楽志くん。横には海猫沢めろん先生が。彼らとは一番古いネットコミュニティ仲間で、とある掲示板の常連だった。のでつい昔の顔になってしまう。大急ぎで2Fに上がって飯田和敏さんとデジハリのブースからゲーム「兄妹☆けんか」と長嶋有ブルボン小林さんの個人誌「スポンジスター」を購入。傍らで大勢の女子に囲まれたブルボンさんにサインをいただいた。その後1Fにとって返して嫌がるめろん先生にサインを強要する。雑談をしてると国書刊行会の樽本さんに声をかけられ、二人とは面識がなかったので紹介する。その後めろん先生から「俺ならゴーレム100をもっとうまく書ける」発言。ああ、でもホントかも。金がないのでこれから年末にかけて怒濤の小説リリースに入るそうなので、めろん先生ファンは要チェックだ。もっとも彼は「俺のファンなんているのか?」と言ってたけど。彼の近況(相変わらず根無し草のような……)なんかを聞く。その後早川のいでさんやそえさんとも立ち話。
ブルボンさんのところでスタンプラリーの台紙を貰ったので、それをやりつつトヨザキさんのブースのチャイナドレス美女を鑑賞しつつ、あちこち回る。でも、これのゴールってなになの? 回るところを珍しくチェックしてたのにすっかり持ってくるのを忘れたので、記憶を探って回る。今年はうU研が出ないそうなので寂しい。マッチ箱のブースでは新刊のVOL.7とお神籤と赤井都さんの豆本を買う。買うことにして値段を見て一瞬ぐっときたが、引っ込めるのも何だし、何よりきれいだったし。豆本と言えば、土屋とささこユニットの仕掛け豆絵本が素晴らしい(そうか、あのバドミントンの羽の人が土屋さんだったのか)。つい、1セット買ってしまった(このブースで買ってない折り紙絵本をいただいたのだけれど、これがスタンプラリーの景品になるのかな?)。テーブルにあるの全部欲しかった。あと、西岡兄妹さんのブースがあったので、本を買って売り子だったお兄さんにサインをいただいた。
結構回ってそろそろ疲れたので、チラシコーナーで気になるものを貰って駅ビルのタリーズへ。1時間くらいゆっくりしてからプヒプヒさんのブースに行ってないのに気づいて立ち寄ったがすでに撤退した後なのか、姿が見えずがっかり。ダンセイニ本、売れちゃったよなあ……。
書評講座の打ち上げに混ぜて貰うことになったので、今目白の喫茶店で時間調整中。
それと、昨日の日記を今日の日付で書いてしまったので、正しい姿にしました。ブクマしてくださった方、ずらしてしまい、済みません。
知らない名前だなあ、と思ったら、デビューしてない人なのね。中学生男子の二人の交互の視点で進む小説。好きな女の子にうまくアプローチできなくて悶々したり、D.T.くさい感じがなかなかよろしい。ついつい引き込まれたら怒濤の展開にただただ唖然。今日は会う会う人にこの小説の素敵さを語ってしまった。
時代設定を過去にしたのは恐怖の大王の話を出したかったからかな? やたらと当時の流行ものが出てくるのは、正直、効果はさほど無かったような気がしないでもないけど。
何の気なしに読んでしまったけど、なかなか掘り出し物でした。はい。
昨晩は、文学フリマが終わった後、書評講座の打ち上げに混ぜて貰って、なんだか申し訳ないほど非常に楽しい時間を過ごすことができた。おそろしくハイテンションの男子がおり、この人誰だー、と不思議に思っていたら、文学フリマで知らない人のブースで買った同人誌のひとつで、しかもblogも読んでる人(Lȥ7 2ơ)だった。読書系のblogの人が誰か「文学フリマに出ます」と書いてたけど誰だったか思い出せずにいたけど、やっぱアンテナは似たようなものなのだな、と納得。一次会の韓国料理屋は、「これでもか」と言うほど食べ物が出てきてみんな討ち死にしていた。
二次会で毎度お馴染みの鳥良に行き、毎度お馴染みのコースをいただく。トヨザキさんにこねこねして貰った五色納豆は愛があってとてもおいしくいただきました。と、ここに佐々木敦さん、仲俣暁生さんが登場。仲俣さんの最近のblog騒動を遠巻きに見ている(論争自体が追えてないので)身としてはいろいろ複雑でここでも遠巻きに見ることにしたが、途中で辛抱たまらず近くに行っていろいろ聞いたり語ったりした。ICレコーダーが置いてあったのかよ! 迂闊だった、とかいろいろ。で、結局今回の件についても何となくblogger代表みたいな感じでいろいろ聞いたり言ってみたりした。へたれなので大したことは言えなかったし論争を追えていない身では本質について語れないのは申し訳なかったのだけれど、少しだけでも、と思って。
で、話し合ってみての感想は、だけれど、ああもうこれは仕方なかったな、と。ただし、これはずっと言っていたのだけれど、実名名乗ってメイルしてこい発言と、他の人と別の話題について喋るトークショーに来てくれれば話するよ発言は下手を打ちましたよ、ダメですよ、あれは、というのは、分かっていた模様。実名ってのは結局名無しさんじゃない個人個人が特定できる名前で、というくらいの話だったようで、そこのところは仲俣さんは天然過ぎるのか、ちょっと書き方が無防備だったよなあ、とは思ったしその通り言った。あと、仲俣さん的には言いたいことの本筋じゃないところにばかり食いつかれている感があるようで、まあこの辺りはウェブの特質だから仕方ないよな、とは思う。仲俣さんにTrackBackした方の文章も(いくつかだけれど)読んだけど、まっとうな論理だったしなあ。まあ、本業の方が今丁度忙しいところだろうし、そちらを優先しないとならないところでいちいち反応することもできない、というのも分かる。TrackBackにひとつひとつ反論してるとどうしても各論になり、先鋭化してしまいがちだしなあ。なんか、こういうのってどうか分からないけど、今回のもの申したい人たちと一堂に会していろいろ話してみるといいと思った。来られない人向けには後日PodCastingするとかしてさ。本当ならストリーミング放送とかできるといいんだろうけどね。
とかそんなことをやっていたら終電を逃してしまい、結局タクシー帰りになってしまった。すごく駄目な大人です。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
群像 2007年 12月号 [雑誌]」
文学界 2007年 12月号 [雑誌]」
新潮 2007年 12月号 [雑誌]」ああ! 昨日の約束で、まだ『恋愛小説ふいんき語り』は買わないと言ってた筈だったのに、辛抱たまらず買ってしまった。だって、読み出したらこれまた止まらない面白さなんだもの。こさささこさんの漫画もステキ。「新潮」は、古川日出男と佐藤良明の対談。まあ、これだけだったら買ってなかったかもしれないけど、渡部直己の新連載「日本小説技術史」が気になったので。こういう観点から語るってのは読者としては嬉しい。「群像」はもちろん岸本佐知子変愛小説集目当て。今回はA・M・ホームズの「リアル・ドール」これまた奇妙で面白そう。チラッと見ただけでビンビンきます。ここの小説の合評では円城塔の「つぎの著者につづく」が俎上に上がっていて、これが非常に丁寧に読み解いてあって素晴しいなあ、と思った。とはいっても私はまだ読んでないので軽く流したくらいなんだけど。円城さんは、幸せな作家だなあ、と思った次第。いや、わたしの勘違いじゃなきゃいいんだけど。「文學界」は、今年の文學界新人賞(楊逸「ワンちゃん」)の人は、在日中国人なのだそうな。これは面白そうだね。そして、川上未映子の新作「乳と卵」が好評のようで、どんなんだろうと気になって。
読書感想などを続けているとあまりにも大量の言葉(しかもそれは日常使わないものだったりすることも)を使うため、変なキーワードで引っかかってくるケースはしょっちゅう。でも、昨日のこれには驚いた。

読書が趣味の人ならピンと来ると思うけど、これはトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』についての感想。もしかしてあらすじ説明から引用したんだっけ、と見てみたけど、正真正銘の自分の言葉遣いだな、これは。じゃあ何でこんなキーワードで検索が来る羽目になるのだろう? これが昨晩からずっと疑問だった。
今この検索リンクを辿ってみると、わたしの読書感想Wikiに行き着く。何だろう? 何が問題なんだろう。多分、この人は何かが問題だと思ったからこのキーワードで検索してるんだよね? しかもわざわざわたしの文章でって、どういうことなんだろう。
最初は、誰かがそのままコピペして自分の文章として使ったのかな、なんて考えた。まあ、わたしの感想を写すよりは自分で書いた方がよっぽどいいものになる気がするけど。で、ここまできてはたと気が付いた。もしかしてこの人、この文章をどこかで見たはずと検索してみたら別サイトではなくて同じドメイン上で運営している、日記とWikiの別コンテンツだったと気づいてそのまま去っていった、ということではないだろうか。わたしは通常、現在進行形の形で日記(ここ)に感想を書きつつ読了した時点で書いたものをWikiに移すという流れでやってるんだけど、そのときの文章は、まるきり同じになることもあるし、かなり変えることもある。けど、まあ大体面倒くさがりなので、そのままコピペしてその後放置ということも多い。一応見た目も違うので別サイトだと思われても不思議じゃないし、実際、Wikiからはわざとリンクしないで孤立させているのは事実。そしたらそういうことも起こりうるかなー、と思ったんだけど、実際どうなんだろ。検索したご本人に聞いてみたいところだけれど、この文章を読んでくれる可能性は低い気がするなあ。
しかし、そんなに長い言葉で検索させるなよ、Google、と思ったら、32語(「語」とは、形態素解析した結果?)以上は無視されるみたいね。
……あれ、でも検索結果にわたしのWikiしか出てこなかったのにそのリンク踏んだ跡がこちらに残っていたのはどういうことなんだろう? 余計に分からなくなってきたぞ。
いや、なんというのかな。「この中にブルボン小林が詰まっております!」って感じの、バラエティ豊かなコンテンツが素晴らしいという話。今、彼自身の論考「現金漫画としての藤子不二雄A論」を読んでるのだけれど、こういったオーソドックスなものを別の見方で見ていくってのがやっぱり面白いんだよなあ。自分も体験してきたことを、別の形で追体験できる。藤子不二雄Aの『まんが道』はわたしも雑誌でところどころ読んだりはしているけど、あの漫画漫画したキャラクタと紙幣や書類やらの「本物っぽさ」はまるで無視していた。いや、気づいてはいたんだと思う。文章を読み始めてすぐピンと来たから。でも、それの意味を突き詰めて考えたりしたことがなかったんだよなあ。そんな訳で、貪るように読んでます。
そのほかにも、先日紹介したゲストの手による小説とか、対談やインタビュー、漫画、コラムなどなど、これまた結構身近にあるっぽいんだけど、ブルボン小林という切り口で見せてみました、といったこの形がとてもいい。ごった煮ではあるんだけど、その味がちゃんと調和してて、単品でいただくよりおいしく感じる、というか。個人誌ってその人に興味がないとあんまり面白く無いんだろうけど、その人へ興味があるということは、多分その人と興味の向きとか面白がり方とかが似通っている部分がある(しかしあくまでも他人だから全く同じというのはあり得ない)からじゃないかなあ、と思った。
思っていたよりもずっとわたしはブルボン小林=長嶋有の世界が、好きなのかも知れない。あのね、作りとしては緩いの。でもその緩さって決してヌルさではなくて、読んでいる方にはそのくらいがちょうどいい、という加減のものなの。
このごった煮感は、もっと違う感じ、「個」の部分を薄めた形にすると、「Kiss」からスピンアウトした「Beth」の感触に似ている気がする。思いっきり飛躍しちゃうし暴論だけれど、ブルボン小林はあの雑誌にインスパイアされたところがあったんじゃないかなー*1。うわっ、言ってみたらすごい暴論な気がしてきた。でも引っ込めないぞ。
*1 彼はあの雑誌の創刊当時からの執筆陣のひとりでもある
まだ先だと思っていた〆切ももう明後日(11月15日)に迫ってしまった。本当は先週末にでもと思ったんだけどどちらも昼間から出掛けて酒飲んで帰ってくる状態だったので全然手を付けてない。本当はちゃんと読み込んでからコメントしようと思ってたんだけど、背に腹は替えられぬ。MIAUのサンプルフォーマットやコメント案を参考にして突貫工事しよう、なんて思っていたら、パブコメジェネレータなるものができていた。
β版のようだが、Opera(Windows)で普通に使えたよ。質問に答えれば楽しく楽にパブコメができあがるという素晴らしい代物。ほんの数分あれば自分の意見の元ができあがる。携帯版もあるよ。これを自分の言葉に置き換えたりしてメイル送信すればいい訳だ。
声に出さないと、その声は無かったことにされてしまう可能性がとても高い。ロビー活動が盛んな権利者団体と違って、我々一般ユーザはなかなか声を届ける機会も無い。このような機会を無駄にせず、是非国民の権利を行使するべきだとわたしは思う。だって、自由に創作物を楽しみたいよ。痛くない腹探られたくもないし。
マイミクの千原航さんが紹介していたページを見に行ってびっくりした。
自分の妄想をリミッター外して爆走させていくような感じなのかな。それでできあがった成果物の一部が講評付きで紹介されてるんだけど、すごく面白い。自分だったらどんなの作るだろうなんてことまで考えてしまう。
ところで、優秀作品を作った方の中に北村薫さんっていらっしゃるんだけど、これはさすがに同姓同名だよね(笑)。びっくりしちゃったよ、リカちゃんかよ! って。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。買いきれない……。
本の雑誌2007年12月号294号 せんべい布団消失号(本の雑誌編集部)」bk1より。
「すばる」はちょっと悩んだけど、とりあえず保留。『30女という病』は、MouRaの連載中、自虐的に楽しんだので本も買ってみた。石原さんには何度かお会いしたことがあるのだが、ホントに大人だなあ、と思う。あの、いわゆる大人じゃなくて、人を不快にさせない方の大人。なにか言われたら大げさなほど驚いて感謝を示し、妙齢の女性が来れば口を極めて誉めそやし、行事や出し物があれば、全力で楽しむ。そういう人なのだ。それでもって人にそれを強要するというわけではなく。そして、それにしてもシオドア・スタージョンはどうしてこんなに暗の部分を見つめ続けるのだろうか。帯を読んでるだけでも気が滅入ってくるよ。でも、滅入るというのとはちょっと違うんだよな。誰もが、自分の心の友を見つけたと思うに違いない。『BAROQUE』の2巻目が『キス&〜』と同じ日に発売というのは著者のblogで知った。すごく気の長い連載間隔なので、なかなか単行本にならないのですよ。『自殺総代理店』は、アンドレ・ブルトンが『黒いユーモア選集』に採り上げている人でもある。こんなものが面陳してあるって、どんだけわたしを釣ってるんだ(ちょっと嬉しい)。
こういった評論って、何かオリジナリティのある軸を見つけたらそれはほぼ成功に間違いはなく、そういった意味で藤子不二雄Aの『まんが道』に労働とその対価である金銭を描いたという見方を発見できたことはとても幸せなことだと思った。少なくともわたしは同じ物を読んでも、あれだけ漫画漫画した絵柄なのに現金がより現金らしいこと、書類や手紙がより本物らしいことの意味には気づかずに今まで来てしまった。何となく、それが劇画的な「文法」を採用しているんだ、といった程度の認識だったのだと思う。
後半は、作品全体を貫く「ちょっと奢ってしまう」→「反省し初心に戻る」の象徴が彼らの背後においてある手塚治虫と一緒に写った写真であると見立て、そこから周囲の人間の彼らへの接し方に移ってきているが、そこから主人公二人の成長物語の構造が見えるところが面白いと思った。
しかしこれだけ読むの、大変だったろうなあ。編集後記の飯田和敏さんへのコメント欄に、山荘でふたりで『まんが道』と『魔太郎がゆく』を読み合ったとあるが、そういう時間を使って読み通したということだろうか。この山荘はおそらく『ジャージの二人』の山荘のモデルとなっている物であろうことを考えると、そういえば山荘に昔の漫画とか置いてあるって記述があった気がしてきた。
それにしても藤子不二雄Aって、すごーいメモ魔なんだなあ。こういうことを具体的に書けるって、そういうことだよね。この文章の中にも彼が日記を付けていたことが記されているが、当時の通帳なども全部とってあるに違いない。星新一的?
カップルふたりが川沿いの道を歩いていく様子を、見開き2ページで表現。左には川を中心とした鳥瞰図、右には吹き出しや効果音(?)入りの文章のようなもの。男女二人のカップルが歩いている様子をちょっと切り出し、二人の会話を吹き出しで表しているのが面白い。並んで歩いているから行の右と左に吹き出し口は分かれる。それで、どちらが言ったことか分かる。そこに周囲の音が重なってきたりしているのも面白く、何というか、すごく映像的な創作だと思う。文章と絵なのに、映像として多分わたしは見ている。
いやもう、こんな贅沢な対談商業誌じゃできないでしょ(笑)。ほぼ同年齢の二人が、デーモン小暮と当時の自分たちと当時の音楽シーンなどなどを喋り倒す。編集後記を読むと、この更に倍あったのを縮めたらしい。そうなんだ! ブルボンさんは「センス無し」(長嶋有『泣かない女はいない』所収)で聖飢魔IIの歌を出してきてる(というか、聖飢魔IIのためにこの短篇をこしらえたという感じ)んだけど、ほぼ同時期、カラスヤサトシも自作品で出していたらしい。それでこの対談と相成ったのだが、濃い。いやぁ、濃いわぁ。これは、自分に跳ね返って来るという意味で恥ずかしい対談だ。身悶えする。特にイカ天辺りを語っているところとか。人間椅子ってそんなにマイナーだっけ? うちの大学の文化祭に来たよ! 時間が合わなくてライヴには行けなかったけど。でもって、すごーく頷くのが90年代文化論的な言及。ちょうど時代の変わり目だったのか、例えばイカ天ブームが落ち着き、渋谷系が流行ってきたとき、彼らのような色物的な存在が、「無かったこと」になったという話。いかに目立つかが重要でそのためにキャラ作り一所懸命していたのに(そういえば聖飢魔IIのキャンディーとかあったわ。それぞれのキャラに合わせた味(全部酸っぱいんだけど)だった)、自然体で売れちゃう人たちが出てきてしまって、という辺りはすごく分かる。それで聖飢魔IIのような存在が「はずかしい」ものになってしまい、一時期長いことファンであることを公言できなかったという話。このニュアンスはすごく納得する。でもって、インターネットでウェブサーフィンするようになって聖飢魔IIファンのサイトなんかをみっけるけど、その「好き」は自分の「好き」となんか違う、とか、ファンの人のサイトの掲示板では常連同士が彼らの音楽について延々語り合っていて、たまに「はじめまして」の人が来るとまるで「ママが3人の店に客1人」状態になってしまう、という話の辺りは、超笑った。あるある、違うファンサイトでも同じ現象が(笑)!
二人は似てるんだけどやっぱり他人だから似てるところ以外は結構違う。好きの度合いや好きのスパンも違っていて、その違いってやっぱり我々読者にも敷衍されていて、だからそれでいいんだよなー、とか思う訳ですよ。
まだ読んでる途中なので、今回はここら辺で。
書評家豊崎由美さんが池袋のコミュニティカレッジで開かれている書評講座「書評の愉楽」が同人誌を作りました。もちろん中身は書評の数々で、日々切磋琢磨されている皆さんによるあんこぎっしりの内容はもうお腹いっぱいです。豊崎さんのソウルメイトでもある翻訳家の岸本佐知子を作った十冊」インタビューもあり、普段よりもちょっとくだけた姿を見ることもできます。そんな内容で500円ですってよ! ワンコイン。文学フリマで売られたものですが、通販申し込み受付を始めたようです。買い逃した方はこの際1冊、いや、1冊を保存用にしてもう1冊なんていかがですか?
また、はてなに進出したこのblogでは、月々の講座で選出される書評王の書評などが掲載される予定だということです。豊崎さんの日々についても書かれる予定だとか(カテゴリができていたのでおそらく)。なんか、すごいことになりそう。いや、今までウェブサイトもblogも無いのがおかしいくらいだったんですが。
えーと、わたしは別に講座生でも何でもなく、時々飲み会に参加させて貰っているだけのヘタレ人間です。だって、あんなすごい人たちと毎月闘う気力なんて、とてもとても。でも、書評王になったときの嬉しさもひとしおなんだそうですよ。因みに、現在講座は定員未満で、受講待ち行列は無いそうです。見学も受け付けてるようですから、気になった人はとりあえず覗いてみるといいかも。確かに、上達はします。みんなすごいです。
いやしかし何も知らない人の目で見ると「書評王」って自称するのはちょっとすごいな(笑)。まあ、島の王様ですから。この書評島での王は下克上の世界で、一刻も王座でゆったり座っていられることは無さそうですが。
なんか朝起きた(寝坊)ときに「喉痛いなー」と思ったんだけど、お昼辺りから怒濤の鼻水攻撃で、ティッシュが手放せない事態に。もう、難しいこと考えられません。鼻の頭もティッシュ負けで赤くなってしまった。
うーん、何とか今日早く帰って症状を抑えたいところ。ああ、風邪薬買って帰らなきゃー。
センター街近くのマツキヨで。
いつもはコンタックなんだけど(成功体験頼み)なかなか見つからず、しかも下を向いているとかなり危険なので目に付いたこれにしてみた。ヴィックス・ベポラッブ(ずっと「プ」だと思ってた!)は、高校の受験日にひどい風邪を引いてしまい、休み時間に床に落ちた消しゴム拾おうと思ったらそのまま倒れちゃったことがあって、そのときは数学の試験は保健室で受けた。で、先生が鼻の下に塗ってくれたのだけれどこれが覿面に効いてびっくりした覚えがある。今回のはそれほど素直じゃなくて塗ってもでてくるので始末に終えないけど、寝るときは胸に塗ってみよう。鼻にはオロナインを少々。
オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)(ジャック・ケルアック/青山 南)』が届いた今日、無事に入手。ということは……ハイ、色々ありまして、池澤夏樹個人編集世界文学全集を全巻揃いで買ってしまったのでありますよ。ピカピカツルツルのカバーが今後どうなっていくかは分からないのだけれど、全巻揃ったところを見てみたいもんですなー。
挟み込みのリーフレットも大事に読んでおります。次の配本は来年1月、本邦初訳の『楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)(マリオ・バルガス=リョサ/田村さと子)』でございます。なんかもう、死んでもいいかも。嘘。折角入手したんだから、読まなきゃ死ねませんわよ。
最初はこのピカツルカバーが気に入らなかったんだけど、ずーっとなでたり触ったりしてるうちに、印象が変わってきた。多分、安っぽいツルツルじゃないんだよね。適度な厚みがあって、それがいい風合いになっている。もしかしたら、劣化にも強いのかも。次に並ぶ本が来るのが楽しみです。カバーをとってもそこは深い青色が見えるよ。
*ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
B1Fで少し単行本と「GINZA」を買っていこうとしたのだけれど、今日に限ってレジに行列ができているので、風邪で隊長最悪なこともあり退散。
今月号の「
GINZA (ギンザ) 2007年 12月号 [雑誌]」には、ケリー・リンクと柴田元幸の対談が4ページ載ってるんですよ!! 真ん中のイラストも文字であったならば……というくらい、店頭でむさぼるように読みました。
昨日朝から出た風邪の症状は、昼過ぎくらいからもうどうしようもないものに。くしゃみと鼻水のコンボがこれまた。鼻からはホントに水みたいなのがたくさん出てくるので、ティッシュも買ったばっかりなのに半箱くらい使ってしまいました。外を歩くのも恐怖だったのですが、外にいる間は少しマシで、渋谷では速攻でマツキヨに飛び込み、買ったその足ですぐ鼻の下にヴィックス・ヴェポラッブを塗り塗り(ヤク中みたいだな)。これでとりあえず帰るまでは安心、と。鼻のせいでマスクも恐怖でかけられません。しかも鼻の周囲はティッシュ負けでまっかっか。
もうね、そのほかに喉の痛みもあったり咳も出たりで、倦怠感がひどい。なんか周囲でも似たような症状で休んでる人がちらほらいるので、今年の風邪の流行かもしれない。みなさまもお気をつけあれ。
そういう訳で会社に行くことができずひたすら寝ていたのですが(病院に行く気力もわかない)明日もこの調子なら、行ってみようかなと。ひたすら寝たら、とりあえず気力は回復してきたけど、熱が少し高くなったような。うちの狂った体温計(計るたびに数字が変わる。水銀体温計が行方不明で、探す気力もない)でもどうやら熱っぽいことは分かるんですが。あとで夫に買ってきてもらおう。
漫画も、『BAROQUE』はかろうじて読めたけど(世界観が分かってきた!)、『ムーたち』は無理。おなか空いてるけど(朝牛乳一杯飲んだだけ)、また寝て夜はうどんでもすすることにします。あ、加ト吉の冷凍うどんの買い置きが1つしか……。
先日書いたとおり、ぎりぎりになってしまったが先ほど「「文化審議会著作権分科会私的録音録画小委員会中間整理」に関する意見募集」に対するパブリック・コメントをメイル送信した。とりあえず肩の荷が下りた。まあ、内容はもう最低限整っていればという状態で非常にお恥ずかしいのだが、MIAUのパブコメジェネレータの力で自分の意見がこういう方向であるということと、それについてどういった形で文章に纏めればいいのか分かったので、非常にありがたかった。体調を崩したこともあり、今回のジェネレータが無かったら、パブコメ提出は難しかったと思う。
わたしたちが各種コンテンツを享受し、楽しむことが、絶えず「違法か適法か」のチェックを受け、ある日突然犯罪者になってしまったら、一体どうなるだろう。誰が、わたしが本当にそれが違法であると知らなかったことを証明できるだろう。裁判は、罪の無いものを助けるばかりではないことは、昨今のニュースを見れば想像が付くはず。絶えず痛くも無い腹を探られつつ、逮捕、告訴の恐怖に怯えつつ、楽しむことはできるだろうか。そんな世界はディストピアでしかない。そんなところに、わたし自身住みたくない。
そういう想いで、提出してみました。まだ時間は残っています。今日いっぱい。せめて30分でも時間があれば、考えてみませんか?
群像 2007年 12月号 [雑誌]」所収)岸本佐知子変愛小説集9。これまた変な小説だなあ。
両親と妹と4人暮らしの男の子が主人公。特に出てこないけど、高校生くらいの感じかな? ちょっとぶっ壊れた妹の部屋にあるバービー人形に恋をし、妹の不在を狙ってデートを繰り返す。しかしこの男の子も壊れてるというか、バービーに飲ませるダイエットコーラにヴァリアム(精神安定剤)を割りいれたりする。もちろん自分も飲んでるのだが、二人でラリってなんかもう、頭が悪すぎる。この主人公のバービーへの愛は、まあ、人形に対してなんだから当然ではあるのだけれど、かなり倒錯している。
この家は、なんだろう。どこか壊れている。食卓の席で何故か両親は主人公が妹に直接話しかけるのを禁じる。どんどん壊れ方がエスカレートする妹と、それに伴い身体が損なわれていくバービー。それでもバービーは妹の所有物だからと我慢しているのだが、やっぱりケンと頭を挿げ替えられている絵はかなりの恐怖だよな。普通だったらそれほどではないのだけれど、バービーが人間のように動き話すだけに、急に人形の扱いを受け、彼女もそれで平気だというのが、もうグロテスクで。頭だけでも平気で話している。そこで何をとち狂ったか、ケンの胴体を相手に自慰を始める主人公もかなり気味悪いけれど、でも笑えてしまう。
不気味さと不安感とエロティックさを醸し出しつつ、この恋も終わりを迎える。やっぱり、身分の差は乗り越えられなかったのね、というところなのだろうが、どこまでが人間でどこまでが人形か、ということなのかなあ。ホントにこの妹のぶっ壊れ具合はかなり気になる。もしかして、兄とバービーのことを彼女は知ってたんじゃないかな。妹の不安定感は、成長の不安によるものかもしれない。そしてその象徴がバービーだという。
恋愛小説ふいんき語り(麻野 一哉/飯田 和敏/米光 一成)』ふいんき語りチーム三人が、女性作家が書いた恋愛小説を読みまくり、語りまくるというもの。三十代後半から四十代にかかった男性三人が恋愛小説を?と疑問に思う向きもあると思うが、この三人なら大丈夫。今までどっぷりその物語世界に浸かってきた経験に新たな感動を与えてくれるから。その前に冷や水浴びせられるかも知れないけど。
この中でわたしが読んでいたのは、有吉佐和子『不信のとき』、吉本ばなな『キッチン』、水村美苗『本格小説』、綿矢りさ『蹴りたい背中』、小川洋子『博士の愛した数式』、姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』の6冊。いやー、少ないですねー。いや、もっと読みたいと思っていたものもあるのだけれど、どこに行ったか分からなくなっていたり、タイミングが合わなかったり。この中でふいんきの三人の読みとは大幅に違っていたのは、『博士の愛した数式』かな。やっぱり主人公である家政婦の気持ちに寄り添って読んでしまったために、兄嫁が恐ろしい存在に映ってしまい、彼女の感情に寄り添うことができなかった。まあ、通常主人公の感情に寄り添うのが普通なのだろうが、これは読み手が男性ということもあり、メタ的な読み方になるのかもしれない。全般的に自分の読み方の浅さを反省させられ、この辺りはもっと丁寧に読んでいたら気が付いたに違いないのに、というところが多かった。特に米光さんが指摘するものにはそういったものが多く、今まで「なんとなく、これいいいんですよ」と説明できないでいたのが、米光さんは見事に言語化しているんだよなあ。もう、ハンカチ噛んで悔しがりましたよ。
中でも嬉しかったのが、『ツ、イ、ラ、ク』を三人が気に入ってくれたことかな。もう、この小説は読んだ人間がその中に入り込み、翻弄されてしまうのですよ。わたしのようにもう恋愛小説はいいよ、姫野カオルコも結婚したら途端に恋愛小説なんか書くようになるのね、なんてちょっと白けてる人間も、あっという間に引き込まれる。その引き込まれ方ってちょっと、恋愛の疑似体験に近い。理屈抜きで気が付いたらそうなってしまうんだよな。その感触を、この対談ではうまく再現できてると思うんですよ。これだけの読み手の男性陣 が気に入ってくれたのが本当に嬉しいです。この本は語り手の突っ込みや隼子の頑なさなどがちょっと独特なので、その辺りで姫野作品に慣れてない人だと引っかかるかなー、とちょっと気になっていたのですよ。そこも好意的に受け入れられたようでホッとした。
逆に、しばらく読んでなかった江國香織、林真理子、山田詠美などの小説も改めて挑戦したいなと思わせたし、綿矢りさはちょっとしたことで気に入らないところが気になり作品に入り込めなかったが、これも再挑戦してみようと思わせるものがった。恩田陸もなかなか読めないでいたのだけれど、これを機会に読んでみたいな。
飯田さんの明後日辺りから飛んでくる感想も楽しい。米光さん、麻野さんの同時に発する「ええ〜っ」と一緒に声を上げる。まあ大体「セックス・ドラッグ・ロックンロール」が論拠だったりするんだけど、山椒のような味わいですわよ。麻野さんの読みは、結構ロマンティック。自分の世界があるんだろうなあ、と思うんだけど、それだけに論理を展開する米光さんとぶつかることが多く、読みの多様さを感じさせるものになっていると思う。あと、ヒゲゴリラ先生の記憶スケッチが楽しかった(笑)。
この三人が絶妙のバランスで存在しており、もうこのコンビで四冊目ともなればそれぞれがどんなところが強いかも分かっているので、役割分担もうまくいってるように思える。何より、三人の読みがぶつかって、そこで自分の意見が変容したり、気づかなかったところにあっと驚いたりして、その場の空気がぱあっと変わるのが、読書会の醍醐味だよなあ、と思う。この三人による個性溢れる脚注も見もので、ここだけ読んでも笑える(『ナラタージュ』の米光さんの脚注は、固有名詞が多くて途中から切れてた。「カラーボックス:色がついた箱!って(笑))。そして、そこに独特の味わいを与えるのが、こさささこさんによるあらすじ漫画。もう、アヴァンギャルドとさえ言っていい表現には圧倒され続ける。かわいらしい絵柄からこそそのギャップに度肝を抜かれるわけですよ。携帯小説では携帯が擬人化されてるよ(笑)。
三人の、大人の部活乗りのトークは、余すことなく面白い。この三人は、大人の経験と論理的な頭を持ってても感覚はD.T.的なものを持ち合わせているので、重層的な読みができるんだろうなあ。読者自身が、その傍らでちいさな声で突っ込みを入れつつ自分も参加しているような、そんな感じで。すごくライヴ感と程よい仲間内感が楽しい(実際、飯田さんが遅れて勝手に始めている回もありましたな)。
まあ、本で読んでも面白いけど、ライヴは輪をかけて楽しいですよ。11月25日(日)には、立川のオリオン書房ノルテ店でこの本の刊行を記念してのトークライヴが行われます。興味があれば是非。そのあとこの本を開くと、三人の声が自然に甦ってきますよ。
なんでも、ポプラ社のPR誌「asta*」(ウェブサイトに特設ページ無いのね)で今度は恋愛小説ふいんき語り男性作家編を始めるということ。男性作家による恋愛小説はドリーム入ってる可能性が高いので、結構突っ込みどころも多そうな気がするなあ。それもまた楽しみ。「asta*」は人気があるのか入手困難なことが多いので、定期購読してみようかなあ。
わたしたちに許された特別な時間の終わり(岡田 利規)』あー、こっちを読んで、この人の存在意義が分かった。というか、この人の評価の高さが見えた。すごいな、これは。フリーターで30絡まりの夫婦の閉塞感みたいなものを、こちらに息苦しさをさほど感じさせずに見せている。何よりも、じめじめとした丘と丘の間のアパートに寝ていながら、夫が仮眠しているベックスにまで漂い、そして自分がかつて会社員であった頃のベックスにまで時空が違っているのに交わっているのがすごい。そして、何らかの突破口も無いのが、またすごい。岸本佐知子さんが何がどうすごいといったのか分からないけど、多分違った意味でわたしはこの人をすごいと言うよ。文章も悪くない。話の運びも、センスもかなりいい。今まで知らなかったのを反省する。
君は永遠にそいつらより若い(津村 記久子)』うわ、これはすごい。装丁があまりにもありきたりでスルーした本だったのだけれど、なぜその頃に手に入れてなかったんだろう。めくったページ1ページ目からやられた。引き込まれて、そのまま帰ってこれない。いや、異空間にもってかれるとかではなくて、あくまでも地続き。でもって、痛いほど自分に返ってくる。このイタさ、おまえはオレか、状態。
まあ、内向的な人間は殆どすべからくそうだと思うのだけれど、人との接触に何らかの抑圧を感じている。だからこそ考えに考えた上で何故かとっぴな行動をとってしまって周囲に引かれてしまって余計にこちらが萎縮してしまったり。わたしは主人公よりはずっとうまくやってきている方だとは思うのだが、多分五十歩百歩だ。でもって、男女の仲にならない親しい異性友だちは普通にできるというのもすごく分かるぞ。まあ、22歳童貞(女)というのはなかなか辛いのかも、とは思うのだが(でも、当時だったらそこまで焦ったかなあ。今は少し許容できる上限が下になってる気がする)、気長に頑張ってほしいものである。でも、節度があるのが、やっぱりこの主人公なんだよな。可愛くてしょうがないよ。
15時開始なのに16時過ぎに駅に着くダメダメ状態だけれど、どうせ整理券が最後のほうだからこのくらいでいいかなあ、と緩い気持ちで行ってみた。意識の半分では「こんな時間にのこのこ行って終わっていたらどうしよう」と心配していたのだけれど。無事、大行列がまだ残っていて安心。結局そこから40分ほど並び、ほぼ最後の方にサインをいただけた。夫が直前に来るのを拒んだため、二人分。それぞれ違うサインをいただき、ありがたく握手してもらって満足して帰ってきた。
帰ってから蕎麦屋で夫にいかにかっこよかったか話していたところ、それに異議を唱えられたので、かっこよいのにかっこ悪いことと、かっこ悪いのにかっこいいこと、の違いについてとくとくと説いた。わたしの中では、みうらじゅんのような人が、最高にかっこいいのだよ。夫もそうだと思ってたんだけどなー。
君は永遠にそいつらより若い(津村 記久子)』酔っぱらって寝てしまったのだけれど、途中でむくっと起き出し、全部読んでしまいました。
冒頭のシーンは、何の前知識もなく繰り広げられ、沢山の人の名前が出てくるので、正直「何だこれは」と面食らう。その後少しずつ、主人公が女子大生であり、既に地方公務員に内定し就職活動も内定した身であること、非モテで、処女(「女の童貞」と自称する)であること、面白いことを言ってみては周囲に引かれたりすること、などなど饒舌体で話しまくるのだが、彼女の身長が175センチメートルであることは、一番最後に明かされる。それだけ、この事実が彼女に重くのしかかっているということなのだろう。同じことはバイト先の後輩(皮とか棍棒とか似合いそうな野生児タイプ)にも言え、彼は彼女と長続きしない理由を、やはり最後に告白する。
もしかしたら他人にとっては「何だそんなこと」と言われそうなことであるのだが、本人たちにとってはそれが生きるか死ぬかの大問題なのだ。それは「まだ経験していないから」こその悩みであり、その悩みを乗り越えさえすれば、多分本人たちも笑って振り返ることができることなのだろう。そのハードルがなかなか越えられない若者たちの群像、と見ることができるだろうか。そして、そんなところでみっともなくうろうろ悩みまくっている彼らに対して、いとも軽やかに乗り越えてみせる(彼らにとっては障害とも映ってないかも知れない)人たちもいることで、対象的に見せている。
この主人公、自分が女とは見られないことをコンプレックスにしているが、機会さえあれば処女喪失をしたいと絶えず目論んでおり「お願いしたい人リスト」までこさえている。これはもちろん照れ隠しのものなのであるが、その照れ隠し(=傷つく前に先回りして予防線を張ってしまうこと)が彼女の場合は過剰なため、周囲は異様な視線を彼女に送ってしまうことになる。もう、この堂々巡り。そして、彼女のもっとも大きい照れ隠しが後半告白され、ある人との出会いを機に一気に物語が進んでいく訳なのだけれど、前半のこちらが気恥ずかしくなるくらい克明に描かれた心理や状況描写が、ちょっと唐突なと思うくらいに素早く話が締めくくられてしまう。この「速度」にわたしは戸惑いを覚えてしまったのだが、他の読者はどのように感じているのだろうか。
生き方に不器用な人たちがあちこちぶつかりつつ、人生の真理を目指す青春群像として、わたしは読んだ。その不器用さは、この物語を読むような人ならば十中八九持っている類のものであり、おそらく彼女らよりは器用に乗り越えているはずだ。自分より過剰に不器用だからこそ、同情とシンパシーを感じるのであり、この部分を丁寧に掬い取り表現したことだけでも、この著者の力量は充分に感じられるものではないかと感じた。
まだ他の作品は読んでいないのだが、是非近いうちにトライしたいと思う。因みにこの作品を推薦していた岸本佐知子さんは、「群像」などで書いてあるのを読んで改めて単行本を買ってみたのだそう。「今年の小説でナンバーワンだ!」と思ったら既に一昨年出ていたものと知り愕然としたのだそうだが、大丈夫、それに輪を掛けて愕然としているのがまだここにいる。
会社にいる間、夕方までずっと右のまぶたが細かく痙攣している。うーん、これってやっぱり眼精疲労だろうか。Windows3.0やWindows3.1の、ディスプレイの環境が悪いときはよくなったものなのだけれど。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
うわーん、『
ナツメグの味 (KAWADE MYSTERY)(ジョン コリア/John Collier/垂野 創一郎/小池 滋/吉村 満美子/和爾 桃子)』がもう在庫無いみたい。先週はレジが込んでたから諦めたんだけど、頑張ればよかったかなあ。って、風邪っぴきでそれは周囲に迷惑だろうけれど。あと、以前に告知した『
失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー(ステファヌ・ウエ/マルセル・プルースト/中条 省平)』の第1巻が出ていた。うーん、どうしようかなあ。見るとほしくなっちゃうなあ。今出てる以上は、版元にも残って無いという話をちょっと聞いたので。
しかし『ラナーク』、どんだけ分厚ければ気が済むんだ(笑)。しかも、めちゃくちゃ面白そうである。
『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』は、この井関隆子という旗本夫人がすごい人なのだ。幕末の江戸から、冷静に社会を見据えている。既に批評の目を持っているのだ。しかも、一度離婚しているというし、酒も強いらしい。せ、先輩!! いや、それ以上の存在だ。女傑といってもいいだろうが、それだと知性に欠けるなあ。
ブルボン×カラスヤサトシ対談読了。後半は、最後まで追っかけたブルボンの独壇場ではあったが、やっぱり同時期に同じものを好き、という情熱はすごい。しかし、曲の好みまでまっぷたつに分かれ、ブルボンが「聖飢魔IIといいえば「ジャガー」」と言い募るのに、カラスヤサトシは買って帰って家で聞いた上で「やっぱ「ジャガー」はないわ!」と言ってるのがおかしい(袖の四コマ漫画)。お互いが、お互い共通で好きなものについて、どんなところがいいのか、どう思っていたのかなどを語るのってすごく楽しいと思うんだけど、正直、自分だったらこんなに語れるか分からないなあ。そこから、当時の世相まで言及してるけど、実際、こんなに覚えてるだろうか。多分無理だ。
ということで、現在「金剛地武志インタビュー」に入っている。あれー、「TOWER」って、昔やったなあ。ゲームをしないわたしにしては珍しいけれど、当時の知人から「面白いから是非やるように」ってフロッピー渡されたんだった。当時のゲームはフロッピーでインストールですよ。懐かしい。あの独特の音、思いだした(ビルが建ったりエレベーターが上下したり)。ただ、音楽は正直殆ど覚えていない……。そしてこの金剛地さんがエアギターの金剛地さんだと今さっきやっと気づいた。しかしなぜインタビューの場所が築地の立ち食い食堂なのか。
池澤夏樹=個人編集世界文学全集スタート記念ということで、現代文芸論主催、河出書房新社共催の形で開催。この辺来慣れないので「まあ、春日駅まででも何とか歩いてこれるだろ」と自分を甘く見てました……。電車を降りて地図を会社においてきたことに気付き、あてずっぽうに本郷方面の出口に出てみたらでかい道路がばーん。これ、わたしが方向と自分を見失う一番最悪のパターン。結局、SFセミナーの宿の記憶をたどりつつ、あそこから水道橋ってどう見えたっけ、とか、そういうことを考えつつ、春日通から本郷通にぶつかり、何とか赤門にたどり着いた。ホントは正門からまっすぐというのは覚えてたのでその通りに行った方がいいと思うのだけれど、ずっと工事のフェンスが続いているような気がして、結局赤門をくぐることにした。要所要所に目的の教室に行くための案内板を立てててくれて助かった! 暗い中ながらも何とかたどり着いたのはこのお陰だ。
既に開始から30分経過したところで、入り口近くで配布物をいただき、案内されて後ろの方の席に着く。生憎、柱が存在感をいや増す席だったが、音声は明瞭で、柴田さんと池澤さん、ときたま沼野さんが見えるから、よしとするか。
入ってきたときはちょうど池澤さんが話していたところで、この全集を出す経緯のくだりだったよう。最後の最後しか聞けなかったのだが、妥協と諦めの末にできたものだ、といったようなこと(メモとって無いので、間違ってたら済みません)をおっしゃっていて、ラインアップフィックスまでの苦労がしのばれた。やはり看板作品、苦労して出したもの、最近改訳したものなどなどは各社手放したがらない事情もあり、それでもこれだけの結果を出すことができたのだがら、やはりすごいのだと思いたい。また、このシンポジウムの中で幾度と無く語られたのが、「その人の見方で世界を切り取ってみて見えたものが世界文学全集として提示される」というものだった。過去幾度となくこのようなものは編まれた訳だが、そもそも世界の文学を限りある器の中に全部入れようが無い、とも。だから「これが気に入らなくても、別の人が別の切り口で世界文学全集を出せばいい」(柴田さん談)という。池澤さんからも「この全集は、今までに自分の書評を読んでそれを気に入ってくれた少なからぬ人向けに編んだものであり、「必読書」とは思っていない」という話も出た。
わたしが入ってきたときに池澤さんはこの全集のコンセプトを話されていたが、それはリストを決めていった結果見えてきたものであるとおっしゃっていた。それは「ポストコロニアリズム」と「女性からの視点」だった。
次いで日本文学を専門とするテッド・グーセンさん(東京大学文学部客員教授)は、この中の3分の1くらいしか読んでない(言語は英語)という。10年前にオックスフォード出版局から日本文学短篇集を出されたそうだが、その作業はとても面白かったがそれと同時にとても難しかったという。普遍的であること、歴史的な位置、ジャンルの問題、女性作家の割合、などなど。しかし、この全集に日本の作家が入っていないのは不思議だ。カナダ(グーセンさんの母国)でこのような全集を出すとしたら、カナダの作家が入ってないと非国民扱いされてしまうに違いない、と。
遅れてきて前の方の席に座っていた沼野さんがここで登壇。「因みに、「あいつはロシア文学なんかをやってるからロシア人並に時間にも遅れてくるんだろう」と言われる方もいるでしょうが、ロシア人はこんなみみっちい遅れ方はしません」と一発笑いをとっていた。
ある外国語文学をやると、その国の代表のように見られてしまうが、いっそ地球を通り越して宇宙人の視点で世界中の文学を読みたいと思っていた(以前、朝日新聞の文芸時評にそのようなことを書いたことがあったとか)。また、沼野さんもロシア語で現代日本作家の全集を出版するのに携わっていたことがあるとかで、そこでは池澤夏樹(「スティル・ライフ」)から笙野頼子(「二百回忌」)まで男性10人、女性12人の作品を収録したとか。この、女性の割合を多くするのがミソなのだそうで。
かつて文学全集ブームというものがあったが、当時は教養主義が力を持っており、全集読破の強迫観念があったのだそうだ。ただし、全集というのは「ここには読むべきものが全てある」という安心感も与えてくれる、と。しかし昨今の価値観の多様化の世相で文学全集なんてあり得ない世の中になっている。
この全集というもの、日本人の好みのようで、明治の頃は著作者別の全集はあったが、今のような形のものは、大正・昭和初期の円本ブームが先鞭を付けたという。円本とはその名の通り1円で1冊買える安価なもの。また、ソ連では1970年に全200冊の世界文学文庫というものを作ったことがある。世界文学全集を編むということは、世界をどう見て、どう切り取るかということだと思う。
最後に司会も務める柴田さんが、ラフカディオ・ハーンの作品を例に挙げる。
とある罪で打ち首の沙汰となってしまった男が「絶対化けて出てやる」と言うので「じゃあ、その証拠に、首を刎ねた後あそこの石に齧り付いてみろ」と言ったら、本当に首はそうしたのだそうだ。そこでこの男「これで奴も化けて出ることはあるまい。死ぬときに考えていたのは、石に齧り付くことだけだったんだから」
とまあ、つまらない目的意識はかえって有害、他のことが見えなくなるから、ということで、学生らによく話して聞かせるのだそうだ。もちろん逆のパターンもある訳だけれど、と。池澤さんの全集もこれと同じ。全集を編むというのは、自由研究の発表のようなもの。「わたしには世界がこういう感じに見える」という。
……この後も続く。
ああ、盛りだくさんでいつまでも読んでいることになりそうに思えたのに、全部読み終えてしまった。とても悲しい。以下、簡単にそれぞれの感想など。
それは果たして大きすぎるから見えないのか、小さすぎるから見えないのか。物体だけじゃなくて、音もそうなのかな。2gは、タイポグラフィというか、効果音を絵的に表現したり、ということに挑戦しているのだなあ、と、掲載された3作を見て思った。
イラスト。かっこかわいい女の子。これって元はカラーだったのかなあ、とかぼんやり思ったけど、そういうのをモノクロで見るのも、意外と楽しい。めろん先生の『零式』の表紙の人なのか。
意味を求めること自体がもはや間違いなのかも知れないと思わせるミニマルな小説。ずっとセッションしているような浮遊感。ブルボン氏のあとがきによればこの登場人物のうちの「コウ」は最近恋愛小説などで売れに売れてる中村航らしいが、もはやモデルを求める意味もよく分からない(笑)。最後に加わるボーカリスト(氏名は未だもって分からないらしい(笑))は、名前がないのに妙に具体的な存在感があったりする。しかし「文学性の高い××」って、どういう意味なんだろうね。何に関しても。
文字が絡まり合っている。浮遊してたり転がってたり固まってたりして、作用し合っている。しかし「ガブッ」って(笑)。
「おやじの条件」「出会いの痕跡」「占い」「電話」の4つのタイトルからなる写真付きエッセイ。金剛地インタビューでも触れられていたが、斎藤さんはオヤジ好きらしい。「シーマン2」の「北京原人育成キット」の話から拡がるおやじに関するよしなしごと。中国のおやじ、昭和のおやじは確かに強そうだ。というか、既にモノが違っていそう。消せない携帯メモリと自分の肩書きの更新、路上の「コンピュータ占い」の真実、指であの人の番号を覚えている黒電話ユーザとデジタル化……などなど。引き出しは多い。
楽しい。食べ物屋さんが集まる一角で、周囲の人のおしゃべりや、多分路上に流れる宣伝用の放送など、単なる「周辺の物音」と区別して聞こえてくる、連れの声。かみ合ってないようででもちゃんと成り立っている会話は、相手に注意を払っているからこそ成り立っているのだなあ、と。
聖飢魔IIその後、って感じ(笑)? 「Tower」というゲームからスピンアウトして生まれた「サウンド・オブ・タワー」。それに携わった金剛地と、彼に声を掛けた斎藤氏。当時は単なるユーザだったブルボン氏。なんか、すごい人ばっかりいるなあ、ここにも。というか、MXテレビの「テレバイダーの金剛地武志ってこの人だったのか(笑)! アナウンサーでは無いみたいだなあ、とは思ったんだけど。これと、またエアギターの金剛地が結びつかなくて、わたしにとってはやっとそのいくつかのフラグメントがひとつにまとまった、という感じ。多才だよね、この人。斎藤さんの、さり気なくすごいところもまたすごい。
あと、金剛地さんはエアギターであってもちゃんと最初に演奏して、それをエア化していると知り、その凝ったところに感激なのであった。基本的にそういう人のようです。
1とは、MSX1。ゲームPCとして記憶している。そのMSX1の代表的なゲームタイトルを4コマ漫画にし、ブルボン氏が解説を付けている。スクリーンショットもあるが、今のゲームを考えるとおそろしくしょぼい。でも面白かったんだよな、当時は。しかし、おそろしく細かいトリビアがいくつも。付いてけなくはないが、新しいことをいっぱい知ったような気になると危ない。全部古い知識だから、それ。
大学で情報工学部に入り、そのまま大学院まで6年間ロボットにこだわり続けてきた人による、成長物語。いや、そう見えるだけだが。自分が当時知ったこと、考えたことなどを年を追う形で綴っており、段階を踏んで素人さんでもロボットというものがどういう風にうごくのかが、ぼんやりとではあるがピンポイントで具体的に理解できるように書かれている。しかし用語解説の中に更に分からない用語が入ってたりするぞ。「ファジイ理論」の中に出てくる「エキスパートシステム」って、ファジイより分からない人が多いんじゃないの(笑)。
ヤクルトのコーチ、八重樫幸雄で遊ぶ。「メガネ捕手といえば、基本、ぼくですよね」に笑った。今となっては古田敦になっちゃうけど、この人がその前にいたのか。その強面だからこそ、遊べてしまう不思議。かなり無理してるのもあるが、それも含めて結構楽しめた。基本的に同じ顔の八重樫のイラストが何故かかわいく見える。
読者投稿欄の形をとった創作。登場人物が全部林さんだから、最初は「これが擬きだとしても不思議だ」と思っていたのだが、ひとりの作だったのか。ところで「朝青龍」というキャップは、本当にあるのだろうか。
ということで、あとがきや執筆者紹介まで丸ごと全部楽しめたのであった。1,000円なんて安いよー。文学フリマで買い逃した人は、一部書店で売り出しているところなので、そこで買うがよろし。今のところ神戸の海文堂書店、吉祥寺のMETEORで売られており、追ってABC各店、ブックファースト各店がこれに加わるという話。
松浦理英子『犬身』の連載を読むためだけに会員になって月々の会費(最初はジャンルごとに「会」があって、わたしは「文芸」の会員になっていた。そうすると連載小説の最新回はただで読め、月に決まった冊数は無料で借りることができた。まあ、事前に利用料金を支払っておくことでインセンティブを得られる、といった形だろうか)を払っていた。その頃は本当にコンテンツが少なく、何か借りようにもその選択ができない始末。好きな作家名で検索しても何もヒットしない、なんて当たり前だった。
漫画のジャンルができたのは途中からだと覚えているのだが、これができて、いつの間にか会費制を止めた辺りから変わったのかなあ。ドラマ化される漫画の登録が多くなった気がする。結局わたしがこれで漫画に手を出したのは例の犯罪級の虐め漫画『ライフ』でだったが、紙でだとある程度の時間がとられるところ、単にストーリーを王だけならば5分程度で1巻を読み終える始末だった。そのときは60日限定で借りたのでもう読めないが、まあ、じっくり読んで保存版に死体という訳ではなければ別に構わないかと考えたためだった。
ところで、少し前に次回以降の配本予定を見ていたら、なんかニッチな作品が大量に登録されるのに気づき、心が躍った。田中啓文とか牧野修とか菅浩江とか北野勇作とか。よくよく考えてみればe-Novels界隈の人々なのだが、先ほどお知らせを見て得心した。e-Novelsの作品の公開が、TimeBookTownのみとなったんだね。結構精力的にコンテンツが更新されていて、最近は新作リストを見るのが楽しみになってきた。作家のテーマ競作の『午前零時』も、本になるまではTimeBookTownでしか読めなかった。これからもこういうものが増えていくだろう。大体『犬身』からして3年半も延々連載してて、これを読んでる人しか松浦理英子の作品には触れられなかったんだから。既に本になっているものからの切り出しもあり、角田光代の『対岸の彼女』や『キッドナップ・ツアー』などはこれで読んだし、小島信夫の入手困難本『女流』や初期短篇集『小銃』も入手している。モノとしてある本と違っていつでもダウンロードできるのであまり積ん読はしないようにしているが、何度も参照したいものなら半永久的に「貸し出し」できる「ロングタイム」が選択できるし、パッと読みたいだけなら60日限定コースを使えばいい。まあ、専用ソフト(Windows限定)かLIBRIe端末(アホほど高くて使い勝手も悪い)かどちらかが必要でこの辺は文句言いたいところが沢山あるのだけれど、まあ、出資会社がSONYだからなあ、仕方ないよなあ、と。海外で発売している新しいLIBLIeはまだマシなので、早くこの手のが日本でも手にはいるようになって欲しいものだ。
今だと、ドラマが始まる『しゃばけ』シリーズとか、何だかあまりはかばかしくない感想ばかり目に入る安野モヨコ『働きマン』とか、少し前にドラマが好評だった『ホタルノヒカリ』とか。そのほか、『えの素』や『天才柳沢教授の生活』、「週刊モーニング」25周年企画での電子復刊など、結構「あ、これ読みたかったんだ!」といったものが目に付く。通常の書店では入手困難だったり、例えば漫画だとすごい巻数になってしまうものもデータであれば嵩張らなくて済むので結構嬉しい。どんな話だっけ、という人には無料の立ち読み機能もあったりするので、それで確認してから、ということもできる。
まあ、ヘボいシステムだとかなんだかんだと文句を言いつつも4年ほど利用している訳で、もう慣れた(笑)。まあ、興味のある方は使ってみてくださいませ。ああでも、新刊のRSS情報からリンクするページが、そのコンテンツにもホームにもリンクしていない(ただのベタな1ページのみ)ってのはホント、勘弁ならない。これは改善要求を出したいなと思いますよ。
あとはまあ、無理だと思うけど、WindowsMobile用のリーダーがあれば文句ないんだけどなあ。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
GINZA (ギンザ) 2007年 12月号 [雑誌]」入り口平台が、ふいんき語りフェアになっているんですが、今日いったらさらにパワーアップ。三人の直筆星取表が付いてました。飯田画伯の似顔絵つき。そのほか、書いてなかったけど、松浦理英子の『犬身』とジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』のサイン本(こっちは訳者の岸本佐知子さんのだけど)と直筆POPもあり。充実してますなー。そしてあのバカ高い『失われたときを求めて』の漫画を、とうとう買ってしまいました。これなら読めそうな気がして。いや、結局同じだけの量を読む羽目になるのかなあ?
Teen Age (双葉文庫)(角田 光代/瀬尾まいこ/藤野 千夜/椰月 美智子/野中 ともそ/島本 理生/川上 弘美)』昨日、「スポンジスター」を読み終えてしまったために帰りに購入した一冊。たまたま文庫本はこれだけだったし短篇集なので気軽に読み始めた。これを買ったのは、それなりに気になる作家が執筆陣のため。中には不勉強にも知らない作家もいたし、名前は知っててもひとつも読んだことがない作家もいる。7人の女性作家が10代の子たちを描いたテーマアンソロジー。
郊外にある中高一貫の女子校。その学生寮で同室になったハミちゃんと、去年まで同室だった泉田さんをめぐるあれこれ。いやいや、さすが角田光代はうまい。ただうますぎて流しそうになるけど、一人称なのに結構大人の視線が入っている(読者は同年代の子とともに大人も想定しているだろうから、その「つなぎ」としてなんだろうとは思うのだけれど)のが少し引っかかったかな。状況が何かに喩えられたりするのだけれど、そこはどう見ても大人の表現。
だれかを好きになるって気持ちは、ところかまわずちょろちょろと濁った水を吐き出す、洪水のあとの下水口みたいなものだ。この学校と寮のなかにはそんな濁った水があふれまくっている。いつか、いつかもっと大きくなったら、このちいさな場所を出ていったら、そんなことはすぐにも忘れてしまうだろうに。(p.23)
この、ちょっと俯瞰した見方も、水の流れ方の比喩も、それを通過した人にしか分からないだろう。でもうまい。
女子校特有の、同性に異性の代替を期待する気持ち。憧れの先輩に目を掛けられる嬉しさ。そして、そんな人が少しずつくすんでいく様を見ること。んー、これって実は、本人が大人になりつつあることも関係してくると思うんだよね。すごくありそうな結論には結びつかなかったところも先の予感を感じさせる終わり方も、もう完璧です。
この人の作品を読むのは初めて。で、んー、いまひとつ感覚が合わない感じがする。決して下手な訳ではなく、あくまでもフィーリングの問題。お話自体は悪くない(都会の子が親の都合で田舎に引っ越してきて孤立するが、あるきっかけで心が融和する、みたいな)のだが、もうこの語り手のじじむささが無理。本人も姉も「年寄り臭い」と指摘してるんだけど、なんかそれだけの問題じゃないような気がするんだよね。その本人視点の話なもんだから、変な抵抗を感じてしまって。
しかし、東京の人が、何故縁もゆかりも無い関西の田舎に引っ越してきたんだろう。そういったディテイルの甘さもちょっと気になったなあ。
藤野さんで女子中学生なら間違いなかろう、と確信。夏休みに友達が泊まりに来た日、知らない男の子から葉書を貰った。そこには「今度電話する」とあった。何故まず葉書なのか?
泊まりにきた友達は小清水さんといって、彼女が不思議な力を持っていると主人公は固く信じている。彼女は否定するけど。二人のキャラクターの違いが現れる、軽快な会話。そんな主人公も、彼氏の前では甘ったるい声を出すらしいことまで何のてらいもなく小清水さんは教えてくれる。
藤野さんは、さり気ない言葉で描写できる人だなあ、と改めて思った。
果たして、小清水さんの力は果たして本物なのか? まあこれはもう、読んでる人が判断するしかないよねえ。
軽く読めるので、今日中に読了できるかな。
昨日の夕方、ついったでぼそっと「VAIO type Gを買おうかなあ」と書いたらtype Gの利点(?)を聞かれてつらつら書くと、すかさずたださんから「だがSONYだ」とツッコミがあった(笑)。まあ、わたし自身もそこで悩んでいるからこそ未だに買ってないのだが、そろそろモバイルノートが欲しいのは事実。でもって、type Gはかなり気になるのだけれど、できるならばもう一回り小さければと思ってしまうのもまた事実。休日、気軽にバッグに入れてお出かけ、ができないんだよね、それでは。
一応、帰りにさくらやに寄ってキーボードの感触などを確かめてみたんだけど、クリック感がやや微妙な感じがした。しかし、持ち上げてみると「これってモックアップじゃないの?」というほどに軽い。気持ち悪いほどに。Let's Note R7もさわったけど、type Gの後だとどうしても見劣りする。でも、賢い人はこっちを買うんだろうなあ。大きさを数字で確認しても、Let's Noteの方が少々分厚い。あと、type Gは液晶がハードコーティングできるらしい。モバイルはいいけど液晶とHDDが気になっていたわたしとしてはこれはありがたい(HDDとSSDが選べる)。んー、ただこれを持つと30万円が飛んでいくのかー、と思うとなんか二の足を踏んでしまってね。果たしてこの冬もモバイル環境が無いまま越すのか、それとも人柱となってしまうのか、今が運命の分かれ目です。
他に1Kgを切ってるPCって何があるんだよ、と見てみたけど、FMV LOOXがあるのかあ。そういえば一瞬心が動いたこともあったよなあ。そのときにわたしの心の声が「だが富士通だ」と囁いたのだった。富士通のPCは、前職でも今の会社でもトラブルが多くてすぐに候補から外れたんだよな。ああ、そんなこと言ってると1Kg行ってもいいからThinkPad、とか思うけど、今はレノボだしなあ(仕事で使ってるけど、ちょっとださくなった)。もう、ノートPCは思い切りだよなあ、ホントに。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
ミステリが読みたい! 2008年版 (2008)(ミステリマガジン編集部)」わー、『ナツメグの味』が大量入荷していたので、早速手に取る。あとは『きのう何食べた?』。夫がモーニングを買うのをやめてしまったので、連載は全然読んでなかったのだ。おうちご飯かぁ。今回もおいしそうだし、何より「これならオレにもできそう」となる程度にハードルを下げてる。めんつゆを使ったりとかね。
きのう何食べた?(1) (モーニングKC)(よしなが ふみ)』うわー、あっという間に読み終わってしもうた。
43歳の弁護士筧が主人公。冒頭、「若先生」が「きのう何食べた?」と事務所のみんなに聞くところから始まり、少しずつ主人公のプロフィールが明らかになるのが最初の回。滅茶苦茶細かく覚えているので「多分あれは自分で作ったのよ」と、女性陣はなかなかに冷ややか。あの美貌で43歳まで独身というのが「あり得ない」らしい。確かにここでも指摘されてるとおり、少し隙がある人の方があっさり結婚できるかもね。
まあ、筧が結婚しないのは単に(?)ゲイだからなのだが、彼が18時にきっちり仕事を片づけて帰る理由と、あまりにも手際の良い調理の手順に呆気にとられてしまう。かなり具体的に描かれており、これはもうよしながふみによる「日常料理の誘い」と見ていいだろう。掲載されているのが青年漫画誌のせいか、手が込んでいるように見せかけて結構手抜きどころも用意されており、特に出汁をとらずめんつゆで代用させるところなどは「考えているなあ」と思った。いやしかし、その日のリーズナブルな食材を見つけてはそれを元にメニューを考え、その組み合わせも変幻自在、と、これは長年の癖がしみこんでないとなかなかできない技だよなあ、と感心する。
ということはもちろんよしながふみ自身もこの程度の料理は日常茶飯事と言うことだろう。その回の終わりには作中のレシピや一言お役立ちメモみたいのがあって、とても親切。実際作ったであろう画像もうっすらと掲載されている。これ、カラーで見たいよなあ。ウェブとかで掲載してくれないだろうか。
食と料理を軸に、筧と、同居中の恋人・矢吹との間柄や彼の性格などもちらりちらりと見えてくるのだが、このあっけらかんとしたゲイ、よしながふみは好きなんだろうなあ、と思う。それなりに悩みや屈託もあるに違いないのだが、いるだけでその場を明るくする人。そういう彼が美容師というのはすごく納得だし、彼が働いている様子を見るとこっちまでほんわかしてくるねえ。
筧のノンケの友人と矢吹が何気に繋がってたり、それで別々にそれぞれの知人だと知らないで会っているところが面白い。しかし、二人でいるところにばったり出くわしたら、モロバレだよなあ(笑)。そういえば矢吹のお客さんに「あの彼ね!」とお店で話していたことがばれてすごい勢いで筧が怒るところが印象的。お客さんと矢吹が話しているところの傍らで「ばれたらどうしよう」とか「まあでも、たまたま遊びに来た友達っていうことでいいか」とか頭の中でいろいろ考えている(笑)。それだけにあっさりばれてて愕然とする訳だけれど。
二人の、補い合う関係性がとても緩やかで、見ていて和んでくる。そしてもちろん、毎回披露されるお腹が減ってるときに読んだら凶暴的になるの必至の調理と食事の様子がたまらん! すぐにこのレシピで作りたくなる。
それにしてもこのカバー、湿気で水分吸うとべこべこになりそうで、保存には向かない気がするなあ。きれいだし、大事に扱わないと。
監査難民 (講談社BIZ)(種村 大基)』なんとなく気になって買ってみたのだが、無闇に危機をあおる内容ではなく、もしかしたらそのきっかけとなるかもしれない、中央青山監査法人(のち、みすず監査法人に変更)の消滅までを時系列で密着取材的に描いているものだった。
この一連の事件はニュースやインターネット上の情報は追っていたが、それではわからないことがいろいろあるもんだなあ、と思った。問題が露見してから奥山理事長は、結構悪役として描かれることが多かったけど、ここではあくまでも危機に瀕した出身法人を助けるべく東奔西走する正義の人として書かれている。2chなどでは彼(公認会計士協会会長も経験し、各種諮問機関の委員なども勤め、永田町にも顔が聞く人物とされている)が早稲田大で会計の公正さを説く講座を持っていたのを皮肉っている書き込みが散見されたけれど、実際はこっちの方が本来の姿に近いのかもしれない。
それでも、内部チェック機能が十分に働いてなかったことが一連の事件を引き起こしたことは事実で、法人としての責任追及の声はのがれられないものと思う。ただ、その処分はあまりにも重く、しかもそれがどのような影響を与えるかを監督官庁であり自らが処分を下した金融庁が予測できなかった節がある。その上、過去の合併の遺恨がくすぶっており、それが火種となり大手優良クライアントと会計士を引き抜かれる形で提携先のPwCの作る新規の監査法人(あらた監査法人)に裏切られてしまった不幸もあったと思う。
日本の監査法人というのは小さな事務所が合併を重ねて今の形になったものだから、色々と組織運営上問題となる部分も多いようだ。そのため、十分に組織を融合させないと、思わぬ形で組織が分裂することにもなりかねないらしい。合併したときの双方の法人名を残した(中央監査法人と青山監査法人)ままでここまできてしまってるのがその状態を表しているともいえるが、この法人の場合、双方あまりにも企業カラーが違うことも弊害となったように思える。
ああ、でも、てっきりこの法人はPwCとはもっと強い提携をしているものだと思っていた。少なくとも一部部署(旧青山)のアグレッシブさは知られていたから。でも結局は経営陣は中央出身者が強力な発言権を持ち、彼らのPwCアレルギーにより緩やかな提携を結んでいたことを知った。監査手続きもPwCの基準に達しておらず、かといって独自の手続きが優れている訳でもない、その辺りの「脇の甘さ」が足を引っ張ったように思う。
一連の事件以降、より世間の目も環境も各種の縛りも厳しくなっているわけで、膨大する業務にどう立ち向かうかは、最後のほうに吐露される若手会計士の一言に象徴されているように思えてならない。苦労して資格を取って苦労して業務を遂行する割には実りが少ない。ほころびを追求しようにも時間は足りないしそこで瑕疵を見つけてそのままになってしまえばそのことで不備を追求されかねない。何をやっても原点でしか評価されないことにいつか疲れてしまうのかもしれない。監査という物自体が、そういうものだから。それでも、自らのリスクから逃れるために事なかれ主義に走りがちという現実をどう克服していくかなどの方策も必要な気がした。
実際、この手の事件はもしかしたら他の監査法人にだって起きるのかも知れず、それが元で四大監査法人の一角が消えたとしてもおかしくはない。しかし上場企業であればかならず会計監査を受ける必要があり、そのキャパシティを越えてしまえば本当に難民が出かねない危うい状態であることは実感できた。
という訳で、近所のおいしいイタリアンで食事をしてきた。飲み物はグラスのシャンパン(女性のグラスにはミニバラを入れてくれるらしい)の後はフルボディの赤。食事の方はコースではなく適当に頼んだのでその組み合わせで大丈夫かどうか悩んだのだが、何とかまとまっている感じだったので良かった。パスタはまあ普通だったが、隣の家族が食べている牡蠣のパスタ(多分トマトソース)がすごくおいしそうだったのでいずれ食べたい。メインは、蝦夷鹿を焼いたのに濃厚なワインソースが添えられており、なんだかんだ言ってもこのボリュームに、あっという間にお腹いっぱいになってしまった。
その後、飲み足りない夫に合わせて近くのバーに立ち寄り、バーボンを一杯。ああ、こんなにキツいのじゃなくて、もっと柔らかい口当たりのにすれば良かった。失敗。
まあ、そんな訳でゆるゆると長い航海の1年目は始まったのでした。
恋愛小説ふいんき語り(麻野 一哉/飯田 和敏/米光 一成)』刊行記念 日本文学ふいんき語りvol.4@オリオン書房ノルテ店という訳で立川まで行ってきた。今回は武者小路実篤『友情』と、後半は『恋愛小説ふいんき語り』こぼれ話、のようなもの。
内容についてはあとで書く。
イベント終了後に近くの居酒屋で打ち上げをやったのだが、それに混ぜて貰った。既に焼酎に移って周囲の人と話し込んでいたところに麻野さんが声を掛けてきた。何かと思ったら、ふいんきの三人からかわいい花束が! 「お誕生日おめでとー」と言われすごいびっくりしてしまった。
少し前に飲み会で飯田さんとほとんど誕生日が一緒で、このイベントの日がちょうど中日だねえ、という話はしていたのだが、こんな気遣いしてくれるとは。うう、嬉しい。この舞い上がった状態で「今日のイベントは何点だった?」と米光さんに不意打ちで聞かれ「80点」と言ってしまったのだが、これは麻野さんのあらすじ漫画のクオリティの高さと、飯田さんのオリジナルソング「友情」、そして事前準備をいつもよりもしっかりやっているように見えたことなどなどで上積み得点だったんだけど、いやもう絶対聞かれると思って、飲み会の前必死に考えていたのですよ。ただ、今までの点数を全く覚えていないので、あまり参考にならないかも、とは言っておく。
文芸コーナー平台にでんとしていた。何部あるか分からないけど、気になる方は是非。あ、ただパックしてあるので、中身の立ち読みはできない模様です。なお、昨日行ったオリオン書房ノルテ店にもあるので、中央線沿線の方は吉祥寺とともにこちらもご利用を。ところでノルテ店、例の『失われた時を求めて』のコミック版をばーんと15冊か20冊くらい出してたけど、あれだけ売れる見込みということなのか……。
クリスマスにさようなら(浅暮 三文)』が結構よさそうな件浅暮さんの『10センチの空』路線のものとあったのでどうかなあ、と思ったんだけど(いや、悪くは無いんですよ、決して)、思ったよりいい感じ。世界を股にかける大泥棒の、テディベア。どうしてそれがゴミ箱に捨てられる羽目になったのか。
今回、『Teen Age』で初めて読んだのだけれど、どうも初挑戦の作家はわたしには合わない感じ。瀬尾まい子もそうだし、この人も。この人は南米とか、海外を舞台にするのが得意らしいのだけれど、この小説には南米らしい名前やものの名前は出てくるけど、土地のにおいが全く無い。映画のように洒落た言葉が空回りする感じ。いや、文章としては良く書けてると思うんだけど、それさえも鼻に付く。ほかの作品を読むと違うのかな。
何だか既視感があったんだけど、あれって三島由紀夫を狙って撮ってる? 似たような写真を見たことがあった気がする(気のせいかなあ)。電車の吊り広告を見るたびそう思ってしまうんだけれど。

先週から始まった長嶋有の新聞連載。さて、どんなのが出てくるんだろうと楽しみにしていたのだが、敢えて1週間我慢して一気に読んでみた。
冒頭がいきなり
久しぶりに豊満な胸というものをみた。
と、穏やかではないお言葉。何だこれは、と気になり読み進めていくと、どうもここに出てくるのは、複数人いるというのがわかる。語り手である「わたし」と、台所でお茶を沸かしているアッコさん(豊満な胸の持ち主は彼女だ)、それにコモローとおじさん。何も説明されるものはなく、その部屋に読者は投げ出される。ここがどこかも、「わたし」が誰かも、この面々がどうしてここに集まっているのかも定かではない。みんな思い思いのことをしているように見える。章のタイトルに「その一 ケイバ」とあるのに、何故か最初に出てくるのは麻雀牌。しかもそれが粉を吹いているというので、「粉ふき牌」と、一見おいしそうな名前で呼ばれたりするところがとぼけた感じでいい。
面白い単語の響きと、動き回る人々。多分、その中で殆ど動かないのは「わたし」だけ。そんな中でのお話。この部屋のゆるゆる加減もいいよー。こたつの天板はどう見てもそれ専用ではない、サイズの小さいもの、編み目に埃が堆積している籐椅子、鴨居と鴨居に渡されている物干し竿と、そこに干された洗濯物。多分、このお話もそういうものなのだ。
高野文子さんの挿絵もとっても素敵。これは、文章を読んでから描いているのかしら。ホントは、彩色してあるのでその色も保存しておきたいところなのだけれど、縮小白黒コピーなので、とても残念。これだけのために夕刊定期購読したくなるくらいなんだけど、一旦とり始めると、勧誘とか面倒だからなあ。コピーですんません。
この週末、溜まった録画データを何とかしようとしていたのだが、何を血迷ってか日付を越えた頃に「医龍2」を一気に見る暴挙に出た。1話は2時間スペシャルで、最初の1時間だけずっと前に見ていたのだが、なかなか時間が取れず今までずるずると。しかし「耐久レース」の様相を呈しており、力尽きるまで、とか言ってたら空が明るくなってきちゃって、ちょっと焦った。
一気に見るとよく分かるけど、これは大きく2つの軸で動いているんだね。
富裕層を相手にした高度医療施設を目指す明真大学病院と、その姥捨て山とさせられる北洋病院。組織に逆らう人間は不要だとアドバイスを受けチーム・ドラゴンの大半を北洋に移すが、そんなことでへこたれる彼らではなかった。貧弱な施設の中で、たらい回しの患者などを引き取り、高度なテクニックを駆使して病巣を見つけ、悩みを解決してしまう。医療ミスなどで不評を買い、北洋病院を潰すのが目的だった新しいオーナーは、あの手この手で妨害する。
とまあ、格差社会をひとつの軸として持ってきて、勧善懲悪的な話の流れを加速させてるんだわね。病院を分けたことで、その構図は余計に見えやすくなっている。
その北洋病院で、朝田らは次々と問題医師たちを仲間に引き入れる。なんかもう、ゾンビがいそうなところで、過去のトラウマを引きずった面々が、朝田と仕事をすることで克服し、仲間になっていくんですよ。これ、単純化してみるとまるで桃太郎(笑)。トラウマの解消がきび団子ということで。
まあ、悪役の方もそのままとはいかず、少しずつほころびを見せるのが、中盤である6,7話辺りと、バランスもよく取れてます。
最初、「医龍」がドラマ化されると聞いて、朝田役を坂口憲二がやると聞いて非常に心配だったのだけれど、このクールで口数少ない男の役であれば彼は適任だったのかも、と思った。鍛え上げられた肉体も、朝田の経歴を考えればしかるべきもので、今時日本にはこんなにきちんとした身体の俳優はそういないだろうから、役に恵まれたねえ、と感じますよ。
どんどん手術の難易度が高くなるのはまるでゲームで、おいおい、どこまで上り詰めるんだ、と思った。無輸血手術なんてその最たるものだよなあ。
それにしてもこの漫画やドラマを見てると、医者一人の腕がよくても成り立たないものなんだなあ、とつくづく感じさせられます。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2008年 01月号 [雑誌]」
yom yom (ヨムヨム) 2007年 12月号 [雑誌]」「yom yom」の「岸本佐知子のヘンな部屋」の小特集を読んだ。だはは、なんだこれー、笑える。岸本さんは基本的に魚系のにおいがすると言うことか。そして、この日記のとあるときにはそのそばにいたことも考えると色々感慨深い。
Teen Age (双葉文庫)(角田 光代/瀬尾まいこ/藤野 千夜/椰月 美智子/野中 ともそ/島本 理生/川上 弘美)』んー、全般的に低調。いくつか検索してみたところではそんなに悪い評価ではないので、わたしには合わなかったということだろう。全般的に、ぬるい。10代を主人公にして、読み手として同年代を意識している作品だから、ということなのだろうと下駄を履かせておきたいが、特に初めて読む作家がわたしには駄目すぎた。わたしは読書には「よかった探し」をする方なので、こんなに駄目駄目言うのはめずらしいんだけど……。
中学を卒業していく「あたし」と、それと入れ違いに生物部部長になる矢守君とのひととき。なんか、漫画みたいだなー。これ言ったら終わりなのかな。
ところで、この中で「あたし」は何度も「けっ」と舌を鳴らすのだけれど、舌を鳴らしてそんな音する? この場面に出くわすたびに違和感で頭の中がいっぱいになって、すごく気持ち悪い。
話自体はありきたりではあるけれど普通にうまい(褒め言葉になってないな……)だけに、ちょっとした瑕疵が大きく見えるんだろうなあ。
気の利いた台詞と、カリブの風。……の筈が、単語や名前をマスクしてみると、日本が舞台の小説みたい。こういった「異国」を感じさせる作品って文章から匂い立つようなものがあるように思うんだけど、もしかしてそういったものを排除したお洒落な作風の人なの?
キャラクター設定も、お話の内容も、全然乗れなかった。
家庭的に不安定な状態の女子が主人公。リゾートから帰ってきた途端食あたりで入院してしまった母親の代わりに家事をする日々。ボーイフレンドは優しくて大好きだけれど、どうしても一線を越えられない。父は、心ここにあらず、という感じ。
しかし、入院した妻に『うたかたの日々』を持ってくる夫って、最低だろ。確かにこの夫婦、仲が悪いことになってるけど、それにしても「死ね」と言ってるに等しいよ。母親は「やだやだ、丈夫な人はこれだから」ってぼやいてるけど、本当ならそのまま本を投げ返すくらいのものじゃないの?
でも、別居が決まったことを母から聞く場面で
やっぱりフィジーなど行かないで西伊豆に行けば良かったんだろうか。(p.265)
というのはとてもいいと思った。このくらいの子が考えることとしても丁度いい、という感じ。この家族は毎夏父親の会社の保養施設に行ってるんだけど、この夏に限ってフィジーに行くのね。でもって、そんなことは詮無いこととは分かっていつつも、「いつものように西伊豆に行っておけば、今までのように夫婦仲も良く、別々に住まなくても良かったんじゃないか」とくよくよしてしまう。例えば望ましくないことがあったときに「やっぱりいつもの道を通ってくれば良かった」と思うような感じで。
この人って、不安定な環境の女の子が、それに負けてないと言わんばかりに健気に頑張ってる、みたいなシチュエーションが好きなのかな、とちょっと思った。このくらいなら許容範囲なんだけど、最近は思いっきり「恋愛小説」寄りになっちゃってるので、どうも受け付けないんだよな。
ふくろうがホウと鳴いたので、一実ちゃんが訪ねてきたことがわかった。(p.269)
ああ、もう、この冒頭の一文で川上ワールドに引き込まれるなあ。逆に、このふくろうのパートが無ければ、それほど川上色が強い訳ではない。
予備校でできた友達一実ちゃんは、自分は「クローン」だとこともなげに言った。彼女のちょっと変わった生い立ちと、そこから現れる感情、そしてちょっとした事件。それらを、ホントにさり気なく書いている。いやいやいや、やっぱりこのアンソロジーで一番良くできているし、一番好きだなあ。この、ちょっととぼけた雰囲気も含めて完璧なバランスだなあ、と感心いたしました。
うーん、なんかちぐはぐなアンソロジーだなあ。10代の切なさとか傷つきやすい心だとか、そんなものがモティーフになっているんだろうなあ、とは思うんだけど。これらの小説がどのように依頼され、書かれたのかが気になる。
間抜けなことに2chで情報を知ったのだが、文庫化した『東京奇譚集』の綴じ込みで、この情報が入ってるという。帰ってきてから昨日買った文庫からブツを掘り出してみた。ほ、ホントだー。
2008年春、刊行予定 村上春樹×トルーマン・カポーティ
村上春樹訳 トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』
えーと、タイトルはこれでいくんじゃろか? 以前、この噂を聞いたとき「そんじゃタイトルも"ブレックファースト・アット・ティファニー(「ズ」は省略されるだろう、と)"なんじゃないかとかっくりしていたのだった。あの、邦題の味わい深さってのがあるじゃないですか。映画なんかもタイトルそのままカタカナ化が普通になってきているけど、小説もかよ、と、『グレート・ギャツビー』や『ロング・グッドバイ』に繋がるチャンドラー短篇集のタイトルを見て嘆息していたところだった。
『ティファニーで朝食を』は、瀧口直太郎の訳があまり評判がよくなかったのでむしろ歓迎らしい。
それと多分ほぼ同時にもう一冊。村上春樹×ブライアン・ウィルソンでジム・フジーリの『ペット・サウンズ』。この人誰?と検索してみたら、小説家なのか。ザ・ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」というアルバムについての本らしい。
このアルバムは殆どメンバーのブライアン・ウィルソンの手になるもののようで、だから名前が出てるのか。
村上春樹はそういえばビーチボーイズが好きだっていってたね。
ブックファースト渋谷文化村通り店にて。
何となくサブカル寄り。というか、サブカルコーナー見てたら人間観察ものを見つけ、立ち読みで済ます予定がついつい買ってしまった。このエンゾ・早川というひとついぞ知らずにいたが、早稲田のスポーツ人間学部を出てる人なのね。あの学部って、そんなに前からあったんだっけー、とびっくりしたけど、でもって、フィジカルなことごとの専門家のようだ。それもあってか他人の「体型」を見る。そのスケッチと共に色んな体型を見る訳なのだけれど、いやいや、耳(目?)が痛い。日ごろいかに姿勢というものに無頓着か、ということですよ。それが体型に現れてくる。絵も結構味わい深く、これはなかなか面白い本です。他にも著作があるみたいね。
ところでこの本、amazonのマーケットプレイスで4000円以上の値を付けられてるんだけど、何でなの? そんな貴重な本? 奥付見ると12月の発売となっているんだけどね(笑)。
午後のハレンチティータイム(竹内 佐千子)』漫画コーナーで見つけ、しばし悩んだのだけれどえいやっと買ってしまった。この手のものは見つけたときに買わないととっとと手に入りにくくなってしまいそうなので。これって最近よくあるblogものかなあ、と思ったら、そういう訳ではないようだね。サチコというレズビアンとマイというヘテロの女子が、昼日中の小じゃれたカフェ(夜のレストランのときもあるけど)でエロトーク全開モードになるというエッセイ漫画。時々彼女らの友人も出演する。いわゆるガールズトークものなのだけれど、女子同士だとそんなに下の話はしないからねえ。彼女らの場合は、性的嗜好が異なっているというのがおそらく功を奏している(いや、単にエロ好きだからかも知れない)んだろうと思うけど、それぞれがそれぞれの得意分野を教えたり教えられたりという関係。サチコは、男性経験がない(後に、暗闇で一度だけ、ということが判明するのだが)ので、仮性包茎の知識がおそろしいものになっていたのは、帯の後ろの方でご存じの通り。いや、この帯で買ってしまったと言っても過言ではない。このコマを帯に掲載しようとしたその英断を褒めてあげたい。
絵柄がどちらかというと記号に近いので(ふたりは髪の毛の色以外は明確な区別が付きにくい)、生々しさを打ち消してくれるというのも良かったのかなあ、と思う。
エロトークの内容に関しては割愛するとして、ええとまあ、参考になることもありましたよ、というか、知らないことが沢山。特にさらりと触れられるレズビアンな方たちの愛の作法とか。
この二人の恋愛観・セックス観の違いも面白い。サチコの方は愛がないと、と思っているのだが、ヘテロなマイの方が「別に愛が無くても」とさらりと言ってのける。彼女は惚れっぽいらしく、元彼氏も沢山いる。この漫画の中でも途中で変わってるし(笑)。
後半は企画ものになっている。AVの撮影風景を見学したり(結構すごい)、男性とエロトークしたり、SMホテルに泊まったり(寝られそうな部屋が1つだけというのもすごい)、女性限定のアダルトグッズショップ「ラブピースクラブ」に見学に行ったり。何かどれも、自分ではちょっと躊躇して行けそうにないところなのでおそろしく詳細なレポートに妙に感心してしまった。それらは前半のトークと同様、彼女らの「知りたい」が形になったものだろうけれど、いやホント、それがちゃんと「商品」になってるなあ、と感心した。むしろ前半のエロトークよりも後半の方がより面白かったかも(というか、強烈に印象に残ったということか)。因みにサチコは、ここのAV撮影見学で、初めて男性自身を拝めて感動していた。
これは女子にはもちろんだけど、男子が読んでも面白いんじゃないかなあ、と思いますよ。実はこの本面陳されてたんだけど、この場所だけ妙にへこんでいたので、もしかしたら結構売れてるのかも知れないなあ(入荷数が少ないというオチか?)。
月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』まだ読んでますよー。
な、なげー(笑)。前半は、TSA(トウキョウ・スクール・オブ・アート)に出向いて講演会をやったことを書いている。というか、その講演の内容を。例によって例のごとく蛇がうねるような話しぶりで、最後には
ぼくの話はだんだん分かりにくくなってきてしまって申訳ありませんが、今日はここでお別れします。(p.231)
って(笑)! 内容はあっちこっち飛んではいるけど、主人公(≒小島信夫)なりに芸術の話をしようと努力はしている模様。ただ、それが聴講したひとたちの参考になるかどうかはさっぱり分からない。ただ、印象深い話はたくさんあるんだよなー。喩えばこの一節。
ぼくはこれらの作品を見ると、かすかに笑えてくるのです。実用が作品化されているのがオカシイのです。最初に看板屋の店先きで、作者が見かけて幻のものになってしまった塗られた絵の具と塗り残しの影のようなスペースとは、これも実用的なものです。アーティストにヒントをあたえようとしているわけではないものなのです。必要上、ひとりでにヒントにされたり、されそうな運命になったものです。(p.209〜210)
意図しない、よく見かける類のものからあるヒントを得て芸術作品になる。そんな話の結びなのだけれど、かなりの納得度なのでした。
中盤は、この講演の後、学校の先生と孫娘とで食事する場面が挟まれるが、ここでそれとなく現在の境遇が示唆されている。いや、気を付けてみるとここにもあそこにもそのヒントはあるのだけれど、一回すらっと読んだだけだと案外気づかない。というか、あんまり話が長すぎて、人の名前を出されても誰だか分からなくなる(笑)。主人公の方は当たり前のように話しているので、こちらもさも知っているかのように話を聞く(読む)。よくお年寄りの話を聞いてるとこういう気分になることあるぞ(笑)。
後半はほとんどが妻の愛子との根無し草のような旅と、高崎の蕎麦屋「そばきり」の主人との会話、およびそこから派生した話が主。最初の方に、岐阜の雑誌から依頼のあったアンケートについて苦言を呈している。それは、岐阜出身の著名人に「岐阜のためにあなたが残してもらいたいと思われるものの名をあげて下さい」とあり、続いて「川、峠、道、橋、山、ローカル電鉄、駅、墓地」と項目が並んでいる状態で依頼しているものらしい。それに対してわざわざこんな風に怒ったらしい。
「きみね、ぼくは岐阜を離れて六十年にもなるのだよ。時々帰ったこともあるが、川で知っているのは、長良川、木曾川、揖斐川、飛騨川ぐらいだろう。峠など一つも知らない。道はおぼえているのもあるが、呼名を知らない、橋は二つぐらいしか知らない。峠? 山? そんなもの消していいと思っているのか。いったい岐阜人どもは何を考えているのだ。そんなところにいくら住みよさそうな、条件のいい養老院があったとしたってどうして信用出来ようか」(p.245)
とすごい剣幕なのだが、こんなに細かく言うこと無かろう(笑)。しかも結構知ってるし。「峠? 山?〜」のくだりは、正論なのだが、それに続いた結びの一文は、これは単なる言いがかりである。主人公(≒小島信夫)が「老後はこちらで暮らしたいなあ」なんて考えていただけのことで、それを雑誌の編集部に言っても面食らうだけだろう。
何となくだが、小島は、一番書きたいことを、この膨大な文章の中に紛れ込ませておきたいのかな、という気がしてきた。ここでは、精神病院を退院して家に帰ってくる息子とのいざこざであり、それが元でどうやら家を飛び出してさすらっている状態らしい。最後の最後に、
そこで改めて車の中に何日間も暮らせるほどの荷物が一杯積み込んであることに気が付いた。(p.282)
なんて書いている。しかし、今さっきまでいた車の中のことを「改めて気が付いた」だなんて。小島のはこの手のものがやけに多いのだけれど。急に「思いだした」「書き忘れた」などの言葉とともに、少し前に書いたことの続きや脇道に逸れる話を書きつづったりもする。
それにしても、老いたこの夫婦が居場所を求めてさすらう様はひどく哀れで、悲しい。因みに「暮坂」とは、このアンケートや蕎麦屋の話が元で思いだした「暮坂峠」のことであるらしい。
こちらは、浅間にある「学者村」という学者ばかりが集まって所有する別荘地でのできごと。そこに新しく土地を買い、小屋を建てた野原夫妻と主人公夫妻と、周囲の人との話になる。まだ途中なので、読み終えてから書く。
これが最後から二番目の話。永遠に続きそうなこの話も、ようやっと終わりが見えてきた。
月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)(小島 信夫)』やっと読み終わった。中断したせいもあるんだけど、まるまる1ヶ月かかっちゃったよ。
天南星自体知らない植物なので、ちょっと検索してみたら沢山見つかった。ただ、あまり実の画像が無くがっかりしていたのだが、以下のサイトで初めて観た。
下の2つのページのラスト辺りに実があるのだが、思っていた以上に毒々しく思え、わたしにとってはちょっとしたショック画像だった(その後、勇気を振り絞って見直したらそれほどでもなかった)。これを、何故野原夫人が病をおしてまで「描きたい」と思ったのだろうか。
浅間の、通称学者村と呼ばれる別荘地に小屋を持つ「私」が主人公。比較的長期間滞在していることもあり、「村長」を引き受けている。そこに新たに土地を買い、小屋を建てた野原夫妻がコミュニティに入ってきてからの比較的短い話。野原夫人は、ボタニカル・アートというものをやっている。植物の細密画なのだが、彼女はセミプロ級(それとも既にプロ?)の腕前のようだ。夫の野原氏の方は、この土地自体に魅力がある訳ではなく、自分の研究資料の災害時を見据えての収納庫としての役割の方が重要だったようで、むしろ夫人の方が足繁く通っているようだ。そんな夫人が死に至る病を得て長く療養するのだが、ある日突然、「マムシ草がどうしても描きたくて」村にやってくるのだ。このマムシ草が天南星とも呼ばれていることを、最後に書き記している。
ここで何を書きたかったのか。おそらくは野原夫人への哀悼と、その夫人がそこまでして描きたかった天南星というものを、ではないか。ちょっと調べてみたところ、この天南星というのは、薬草として用いられることを知った。
ƥʥ祦,ŷ,ʤ礦ʤ礦,ʤʤ礦,ʤʤ礦,ȥʥƥʥ祦°
薬効を見るといくつかあるようだが、目を惹いたのが内服による、子宮けい癌治療。小島氏がこのことを知っていたかどうか分からないけれど、もしかしたら知っている可能性がかなり高いように思える。というのも、この野原夫人に最後に会ったときのことを書いているのだが、
彼女は立ち上がらなかったところからすると、腰から下半身にかけて、骨のぐあいが相当に悪いのであろう(p.314)
と察している。だとすると、病巣の位置からして、野原夫人の病気が子宮けい癌である可能性は十分にあるのではないか。いや、もちろん単なる思いつきで、全く見当が外れてるかも知れないが、もしかしたら野原夫人が藁にもすがる思いでこの植物を描きに来たのかも知れないとも考える。骨にも転移しており、もし天南星に薬効があったとしても今となっては手遅れであることは分かっていたことだろう。それでも、何かを願ったのでは、と思わざるを得ない。
そして、これは「夫を残して亡くなった妻」として、自分の最初の妻のことも連想したのではないか、などと考えてみる。
このような短い物語でありつつも、随分広がりを持った小説だなあ、と感じた。学者村内のご近所づきあいの様子も面白い。
小島自身と思われる男の、戦争中の話。これは、福田恒存の追悼の意味もあるのだろうか。N・Kさん(これは彼の著書名から西尾幹二だとすぐに分かる)の著書の中に出てくるという福田のエピソードを紹介している。これは戦争を挟んでの二つのエピソードなのだが、ここで唐突に「私」の戦争中の話になる。話自体は、福田がこのときにわざわざ訪ねてきてくれたが「私」は演習中で離れたところに出ており、結局会うことはできなかった、ということだけなのだけれど、ここは同じ同人誌の同人だった福田と自分の境遇の差について思いを馳せているのかも知れない。小島は幼少時の吃音を理由に軍隊の幹部候補に上がることを拒むのだが、もしかしたら、というか、多分そうだろう。戦争自体にできることなら行きたくなかったに違いない。しかし、行かざるを得ない状態にあったのだろう。ここで綴られていることは、かつて『墓碑銘』、「星」、「銃」(『殉教/微笑』所収)などで描かれたものが、もっとレアな形で書かれている。
わざわざこうやって書いているものは決して無駄なことでは無いと思う。というのも、ある事象は別の事象から繋がっているものであり、それはまた別の事象に繋がるもので、そこまで書かないとちゃんと描いたことにならないからだ。これは、ミニマリズム的な発想と対立する考え方なのかも知れないが、ひとつの手法ではあると思った。混沌とした情報を読者は受け取ることになるが、そこから何か光る粒を拾っていく、といった形になるだろうか。もちろんそれ以外のところにも味わいがあり、ちょっと不思議な体験をすることになる。このような受け取り方は、この人の作品を読まないとしなかっただろうし、更に言えば初期の、お手本的な「小説」らしい小説を読まないと、拒絶してしまっていただろう。あれを書いた人が何故晩年このような境地に達したのかをいろいろ考えている内に、こういう結論に達した。
小島の、この頃の作品は、体験した出来事をつらつらと書いていくものが多い。その中に、ひょいと濃密なものが詰まっていて、そこに寄り道してまた帰ってくる。その繰り返し。意識の流れみたいなものをひとつには書きたかったのかな、とも思うのだけれど、まだそんなに作品を読み込んでないので断言はできない。
それにしても、この体験がそっくりそのまま『墓碑銘』になるのか、と思うと、その手腕にやっぱり舌を巻かざるを得ない。この作品は、初期短篇を読んでからの方がより楽しめるのではないかと思った。
最後の解説が思いの外よかった。山崎勉って誰だよ、とちょっと調べてみたが、Wikipediaのは多分同姓同名の別人で、南山大学外国語学部准教授の人がおそらくその人なのではないかと思われる。ディケンズの研究者かー。この後期短篇集を編むに当たり、作品の選定を依頼されたとのことで、だから当然ではあるが、この短篇集の狙いをよく理解している。また、小島文学についてもかなり深く通じており、特に後半の解説は自分が今まで読んできて感じたことを検証するにあたり、非常にありがたかった。
作者自身がしばしば吐露しているように、小説とは発見した真実(らしきもの)を形象化するものではなく、書きながらそれ(らしきもの)を発見するプロセスそのものであり、しかもできあがったものが「――何を意味するのか、作者の私にも、いま考えても分らない」(『一寸さきは闇』)ほど「真実というものは、それくらい手間どるもので、それに近づいたときには、また新しい条件が立ちはだかって、横道へそれてしまう」(『島』自注)からだ。同じ題材に小島信夫の小説に繰り返し現れるのはこういった飽くなき真実追究の欲望がなせるわざなのである。(p.355)
と、小島文学の真髄とも言える部分を、解説してくれている。
この作品集を通して読んでどれが好きだったかと問われれば、「合掌」と「南天星」と答えるかも知れない。どうしてなのだろう。他の作品でもそうだったのだが、亡くなった人への視線がいかに優しいか、感じさせるからかも知れない。しかしそれは亡くなった人だけではなく、登場するあらゆる人に向けて注がれているものなのだが。
折しも今日辺り、小島信夫のふたつの文学論集が2冊刊行される。水声社の『
書簡文学論 (水声文庫)(小島 信夫)』と『
小説の楽しみ (水声文庫)(小島 信夫)』。随分小島信夫に傾注してしまったので、ちょっとすぐに読むことはできないと思うのだが、こちらを読むのも楽しみにしていたい。
_ かさはら [ 連続投稿になります。 >新宿のフランス書房 新宿のフランス語書籍専門店の社名は「フランス図書」 だと思いま..]
_ にじむ [間違いの指摘ありがとうございます。多分私の聞き間違いだと思いますので訂正しました。 なお、最初の投稿ですが、申し訳あ..]