この本は、まるで「ジェーン・オースティン作品の詳説」といった勢いだなあ。章ごとにテーマを立てており、それに合ったオースティン作品を引いてきているのだが、わたしたち異文化の他国民(しかも時代も違う)が理解しにくいだろうどころを丁寧に読み解いている。当時の社会的事情や、イギリス特有の階級社会の影響まで実に詳しい。
特に、さすがと思えたのが、第4章「アッパー・ミドル・クラスのこだわり」。著者はこのほかにもイギリス文化、特に階級文化について言及する本を数冊ものしており、堂に入ったもの。オースティン作品の中でも『エマ』は、アッパー・ミドル・クラスの微妙な差異についてかなり細やかに描かれた作品として知られているのだけれど、この感覚が本当に微妙で、だからこそ認識の差で悲喜劇が生まれてしまうんだよな。エマの脳内ではすっかりジェントルマンの嫡外子と決めつけているハリエットの結婚話を「身分に問題があるから」と破断させ、ふさわしいと考える牧師と一緒にさせようとあれこれ画策する。しかしそれは彼女自身がその牧師を好きなものと誤解させてしまい……という狂想曲。すっかりその気になったハリエットを落胆させ、ハリエットと見合う身分と見なされた牧師は激怒し、エマはエマで自分とエマが本気で釣りあうと思い込んでいた牧師に驚き呆れる。この騒動はエマが余計なことをしたから生まれたんである。
ここで、子女の教育についても触れられているが、この混沌とした時代は知性と教養が求められ、子供の教育は親の責任だったらしい。その点、エマは家庭教師こそ付いていたもののあまりしっかり教育を受けていた訳ではなく、甘やかされ放題。地球は自分を中心に回っていると思い込んでいた鼻っ柱を折られて現実に目が行き、失敗を糧に少し賢くなって最良の伴侶を得るという話なのだが、話のためにエマの性格が少々大袈裟になってはいないか、という著者の指摘はなるほどと思った。このアッパー・ミドル・クラスというのは実際に爵位は無いが仕事を持たずに暮らしていける財を持つジェントルマン階級を指すのだけれど、この幅というのは意外に広く、しかも下の階級との膜はひどく薄い。だからこそその人それぞれが身につけているものが勝負となるので、オースティン作品のような世界ができあがるという訳だ。
今、最終章である第5章「オースティンと現代」を読んでいるところなのだが、海外にはオースティンオタク、名づけてジェイナイトと呼ばれる人たちがいるらしい。綴りさえ分からずあちこち漁って"Janeite"がそれだと知ったのだが、たとえばここのところその手の人たちが多いアメリカのオースティンファンのサイトを見ると、毎年Annual General Meetingsという集まりが開かれていることが分かる。試しに今年のページを見てみたところ、開催地はシカゴで、来年はフィラデルフィアを予定しているとのこと。内容も、研究セッションあり、ワークショップあり、レセプションありと盛りだくさん。オプショナルなローカルツアーなんてものもあり、なんかこれってSFのワールドコン(地方コンでもいいんだけど)みたいなもの?とか思ってしまった。どこでもマニアになるとやることは同じなのだなー。
今日、例のロケットビルに入居するブックファーストの新旗艦店、新宿店がオープンなのだそう。
わたしは今週平日は用事が入っていて行けないのが残念なのだが、昨日の業界向けプレオープンに行ってきた人の話だと、四角い部屋がどこにもない、迷路みたいにあちこちに部屋や通路がある空間なんだとか。どんななんだー?
旗艦店が渋谷から新宿に移ってしまったのは本当に残念なのだけれど、またあの興奮を思い出させてくれるといいなあ。そして、できればまた、渋谷にも旗艦店を是非に!
新宿西口って、以前夫が勤めてたオフィスがあるのだけれど、周辺にまともな書店がない&閉まるのが早い、と不便がっていたので、そういう需要にも応えることができるんじゃないかと思っとります。
一応はこれが最後の倉橋由美子ルネッサンス2008。来年も、2009が開けるくらいに新しい動きがあるといいなあ、と思いました。
蜂飼耳さんは、眺めのボブの、知性が感じられる面長顔。何となく連想したのが女優の山本未來。彼女をもう少し柔らかくした印象。
※以下の文章は、イベント時の走り書きを元に記憶を再構成したもので、実際とはかなり違っている可能性もありますこと、ご了承ください。
『暗い旅』との出会いは、夭折した詩人氷見敦子の全集(全一巻)。果たしてどれがきっかけだったかと日記のページを繰ってみたが見つからず、諦めかけていたところにふと見た詩がそれだったと気付いたとか。タイトルは「東京駅から横須賀線(以下、後でフォローします)」という長いもので、その中で鎌倉駅前での描写は、丸々『暗い旅』を引用しているのだとか。氷見さんと今日のホステス古屋さんは同年代なのだが、氷見さんが『暗い旅』に出会ったのは1972年。刊行してからほぼ10年経っている。それで大学生だった蜂飼さんは学校の図書館で借りて読んでみたのだが、実は印象がぼんやりしていて、あまり覚えていないのだとか。どうしてだったか小さなメモ帳を繰りながら一所懸命探していたのだが、「些末なところに引っかかっただけなんですけど」という。フルーツ牛乳を飲んだりするところ(今はあまり、しかもセンスある若い女性が飲むものでもない、ということでか(これはわたし自身の感想なのだが))や、ものの値段や、東京から京都まで7時間以上かかることなどなど。この印象は、わたしもすごく分かる、と頷いた。それにも増して鮮やかな色を発する小説だとわたしは思ったのだけれど、それよりも別の作品や批評文などの方がしっくりきた、という蜂飼さんのお話も分かる。古屋さんは、とにかく当時とても夢中になったという。ふっとフランス語が書かれていたりとか、とにかくお洒落で、インテリっぽく、背伸びしたがりの年代にはぴったりだった、と。
この小説のキーは「失踪」と蜂飼さん。現実から離れたところに行くのは、他の作品にも出てくる。平面的なものだけれど、移動をする。倉橋さんの小説は「小説を書くとはどういう子とか」を小説の中で考え続ける作風でもある、という話。
蜂飼さんは『反悲劇』が一番お好きだという。倉橋さんの作品もやはりストーリーのある小説なのだけれど、その骨に強い批評がある、とおっしゃっていたのが印象的だった。
ここで読書の話になったのだけれど、倉橋さんは「隠し事をしない」という姿勢だったと古屋さん。自分が影響を受けた作品や作家を隠したがる作家も結構いるのだそうだ。ここで蜂飼さんが「読むということが書くということの一部だ」とおっしゃっていたが、この言葉はこのセッションの中で一番印象的なものだった。『偏愛文学館』の話にもなったが、中に収められている作品は、壺井栄の「二十四の瞳」もあったりして、とにかく境がない。倉橋さんが選んだ世界であり、実にのびのびとしている、という。また、書評ではあるのだが、書き方がやはり小説家であるとも。小説家ならではの目の付け所。
ここで『反悲劇』に戻るが、蜂飼さんが特にお好きなのは「白い髪の童女」と「河口に死す」だという。ここに書かれているものは、人間にとっての悲劇的な状態で、人間というものはそういうときにどうしていいか分からなくなるときに出てくるものがあり、そういうことを描いているのだとか。実はわたしは『反悲劇』、講談社文芸文庫で出た当時に読んだのだけれど、その頃はこういった小説に慣れてなかったせいだと思うが、ときどき面白いところはあるものの、どうしていいか途方に暮れてしまった過去がある。お二人のお話でやはりもう一度読んでみようと思い立ったのだが、今は『反悲劇』自体品切れしたままなのだよね。いや、わたしは持ってるから大丈夫なのだけれど。是非、どこかで復刊していただけないものかなあ。
倉橋作品は作品によって文体が違ってきていて、そのイメージと空気でその都度万華鏡のように変わっていくのだそう。確かに、初期の長編数作読んだだけでもそれは感じることができる。ひとつ駄目でも、もうひとつ他のものを試すこともできるよな。
さて、先頃刊行された「
倉橋由美子 (KAWADE道の手帖)」だが、『聖少女』の原型(というか、未紀の手記の部分)が掲載されているのだが、古屋さんが「ふたつを読み比べるとどういう風に物語にしていったのかがよく分かる」と。『聖少女』では話者としてKという若い男性が出てくるのだが、彼を読者との媒介者として置くことで、近親相姦の生々しい女の子の話を、現実に定着させることができる、という。確かに、物語の原型があってその外側の物語として誰か第三者を持ってくる場合って、そういう意図のことが多いよなあ。ところでこのムック、わたしが中を見て歓声をあげたのは、昔雑誌の記事にあった、倉橋由美子の人生相談が再掲載されていたことだ。勿論抜粋なのだろうが、以前ジュンク堂で開かれたイベントでこの存在を知り、ずっと読んでみたいと思っていたのだ。相談内容も相談内容なのだが、これに応える倉橋さんの固定観念に縛られない自由な思想とユーモアといったら! 実にハンサムだ。
倉橋さんの第一エッセイ集『わたしのなかのかれへ』の話にもなったのだが、倉橋さんという人は、ものごとに対して余裕を持って笑っている感じで、辛辣さがあり、皮肉と笑いが同居している、という話になった。抑制の利いている文章なので、皮肉がより際だつ。『反悲劇』での居酒屋のシーンを読み上げたのだが、まさにその通りで、読んでてつい笑ってしまう。
話も終わりに近付き、古屋さんが「蜂飼さんは『酔郷譚』ではどの話が好き?」と聞く。「さっき控え室で話したじゃないですか」と恥ずかしがる蜂飼さんに「ほらでも、皆さんは聞いてないから」と促す。「黒い雨の夜」が特に好き、なのだそうで、これは古屋さんも同じなので妙に盛り上がっていた。主人公の慧君が変化(へんげ)し、とある場所にいってしまう話という形をとるのだが、この短編の中では慧君はなんと女性になり、一休さん(あの一休さんですよ)とまぐわい、何と子を産むのです。男が女になるだけでも面白いが、しかもセックスして子供を産む経験までするなんて、とその発想の飛躍にも驚くのだけれど、それは文章だからこそのものなのでしょう、と蜂飼さん。ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』にも通ずるところがあるという指摘が。また、この短篇集はお酒を介して異境に行く物語であり、「酔郷」というキーワードはしかし他の作品でも散見されるという話だった。『反悲劇』にも出てくる言葉。因みに倉橋さんはお酒を飲まれなかったそうで。しかし倉橋さんという人は、現実にはしていないことを小説を書くという形で自由奔放に体験した人であることだなあ、と嘆息したのでした。
終わってから、蜂飼さんのサイン会が行われ、『
秘密のおこない(蜂飼 耳)』にサインをいただいた。左利きだったので、ちょっと嬉しかった。
今回はたまたま「週刊文春」のイベントコーナー(映画評の左隣)の取材があってこのイベントの告知もあったようで、ひとりいらした外国人の男性はその情報でいらしたらしい。実は別の件でこの記事が出た後に六本木店に電話をしたのだが、受け付けてくれた方がとても嬉しそうに「倉橋由美子さんのイベントですか?」と聞かれ、とても申し訳なくなってしまった。こちらのイベント参加の申込は既にしており、「いえ、違います」といわざるを得なかったのだった。