東日本大震災から、1ヶ月建ちました。当時わたしは隣駅の紅茶屋さんにいて、遅いランチを待っているところでした。煮込み料理の、おいしそうな香りが店内に漂い始めたところの揺れ。お店の人たちはなかなか気付かず、わたしはどうしたらいいか、座りながらしばらく構えて考えていました。もう一際揺れが大きくなったところでお店の照明とガスが止まり、お店の人から外への避難を促されて外へ出たのでした。あまりにも地面が揺れていて、次の瞬間どうなるか分からなくて街路樹の幹に手を掛けたけれど、樹も大きく揺れていました。もちろん枝の先もぶらんぶらんと揺れていて。
わたしは、小学生の頃に自宅にいたときに起こった宮城県沖地震に遭っています。その日、ちょうどうちの建て増し部分の「建て前」の宴会中で、外で飲み食いしている人たちは全く気付かなかったらしいけれど、母屋部分のキッチンダイニングと居間では、かなりの騒ぎになっていました。鴨居に掛けられた賞状などの額も落ちてきたり。わたしはピントのずれている子供だったので、そんな中でちょうど雑誌の付録で手に入れた地震ハンドブックを冷静に読んでいたようです。当時、何かがあったらすぐに持ち出せるように、お気に入りのポシェットの中に入れていたのを覚えています。
そのときは分からなかったけれど、今回の地震は、そのときよりもずっと激しい揺れでした。揺れが大きく、横揺れなのでピンとこなかったみたいだけれど、こんなにすごい揺れを感じたことが無いのです。
結局、その店ではその後しばらく待たせて貰っても停電が復旧せず(紅茶のポットにお湯を差して貰ったので、その後もしばらく復旧を待っていました)、結局駅前のデパートで暖かいおそばをいただいたのですが、そのときの地下食品街のあまりの普通の空気、その後行ったテナントの蕎麦屋でも何度も余震があったにも関わらずちゃんと調理は続いていて、頼んだものが出てきたこと、それらが、とても不思議なことに思えました。外では、停電で信号も稼働してなかったにも関わらず。
その後、駅ビルが営業していればそこのスタバで電車の復旧を待ったと思うのですが、ショッピングモール全体が真っ暗で営業を中止したよう。仕方なく家まで歩いたのですが、坂の上り下りが何度かある中で、ちょうど我が町に入るところで坂道の頂点に立って見えた日常の光が、とても信じられない思いでした。すぐ隣の町では停電で真っ暗闇なのに、我が町は民家も煌々と明かりがついているのです。結局、駅前のスーパーでペットボトルのお茶を買って帰ったのですが、スーパーの平常っぷりに驚き、家に帰ったら、電源はストップしていないものの、エレベーターが緊急停止したままで、ピューピュー風の吹く外階段を上っていったのを覚えています。
その夜は、家でご飯を食べる気がせず、階段を下って近所の居酒屋に行ったのだけれど、閉店時間は早めにすると断りつつも、ちゃんと店を営業してくれていて安心しました。実際、ここまではそこまで申告だと思っていなかったんですよね。宮城県が震源地だと、衝撃は大きくても、そこまで大事だと思わない。紅茶店にいたときに来た二度目の地震が、まさか故郷の福島県沖で起きているとは知らなかったのです。iPadとWiMAXルータ、PHSは持っていたけれど、どれも残り電源が心許なく、情報収集に精を出せなかったのでした。夫の携帯のキャリアがDoCoMoで、PHSから何度も電話してもなかなか連絡がつかず焦ったりもしましたが、家に帰ってから連絡が取れ、家から比較的近くにいたので、うちはあまりインパクトが無かったというのも影響しているのかも知れません。
その後、飲み屋から帰ってきて二度目の地震が福島県沖だったことを知り、今まで聞いたことのない震度で驚いた。その場で電話が通じなかったので、ひとまず寝て翌朝から郡山の実家に電話を掛けまくったけれど、通じず。その後、受信側が壊れている(つまり震災に遭って家が倒壊?)か、回線の混雑か、という理由でずっと連絡が取れず、ダイヤル171、web171にもアクセスしてみたけれど、ここでも何も情報は得られず。ここの問題については、不便であったので、考えるところがありました。ようやっと実家と昼前に連絡が取れて無事を確認した後は安心して寝てしまい、合間に埼玉の叔父から連絡が入っていたとはしばらく気付きませんでした。叔父も、実家に連絡が取れず、とりあえず関東圏に住むわたしに様子を聞くのに連絡をしてきたそう。折り返し電話をしたときには既に連絡が取れていて、お互い久しぶりの会話に心を和ませました(わたしと一番年が近い叔父で、15歳違いなので、遠く離れて住んでいた期間は長かったけれど、気心が知れているのだ)。
けれど、これは本当に不幸のとば口だったことは、その後時間をおいて知ることになる。沿岸部の、東電の原発施設が相次いで機能不全に陥り、広大な福島県の土地の大きな部分を人の住めないエリアにしてしまい、福島県ばかりか、茨城や宮城、千葉の農作物、漁業を壊滅的にさせたのは、いったい何だったのか。もちろん、我々の無関心は根深いのだけれど、様々な面でどんどんひどいことになっていく様を見るにつけ、悲しみというよりも、絶望を重ねてしまうのです。
智恵子は、福島にほんとうの空があると言ったそうです。でも、そんな豊かな自然が、人智を超え抑えきれない力によって、破壊されつつあります。緑の大地、青い海、それらは、これからどうなってしまうのだろう。自慢といえば豊かな自然くらいだった彼の地が、今後どのように見られることになるのか。
震災があって一週間過ぎない頃に、渋谷のBar Issheeに、大友良英さん(福島県福島市)のライブを聴きに行きました。駅前の大型ディスプレイや看板の電飾が消えた、暗い町を心細く歩いていって。その後から大友さんの声に注目しているけれど、彼の言葉が、一番自分の気持ちに近いと思わざるを得ません。一度はいやで捨てた故郷だけれど、そこが壊されつつあることに、悲しみと怒りを覚えます。
そういう意味でも今回の都知事選には注目していたけれど、結局は現職の雄叫びを上げることを阻止できず。でも、わたしは石原慎太郎東京都知事が、東京電力の持つ、福島県の原子力発電所があのような深刻な事故を起こしている最中にわざわざ「わたしは原発推進論者です」と宣言しに来た石原慎太郎のことは、一生許しません。それはやむにやまれぬポジショントークだったかも知れないけれど、傷口に塩を振り込むその行為は、都知事選前にしにきたというのは、パフォーマンス以外の何者にも見えません。それが、ポジショニングトークだったとしても。残念ながら70代を終えようとしている石原は再選されてしまったのだけれど、今後はより厳しく、注視していきますよ。強がりを言っていたとおり、東京に原発を持ってくればいい。
そして、被災地およびそれに影響を受けた地域の方たちの心の傷が少しでも癒えますよう。できることであれば、何でもしたいと思っています。
この一ヶ月の出来事を風化させないこと。それが、何よりも大事だと今は思っています。
当時は寒くて、ダウンコートを着ていました。歩いて帰るには手先が冷たくて、鞄に入れていたケイトの手袋が、とても役に立ったのに、今は花見のピークも終わり、上着を着なくても外出できる季節となっています。この長くて短かった1ヶ月が、全部嘘だったらどんなに良かったことか。